月島蛍という人間を幼いころから知っていた

第3話
 駅近くのベンチに座り手帳を開いてみる。ここのところの忙しさったらない。真っ黒に埋まった手帳を見て充足感を得る人間がいるというけれど、私はとてもそんな気になれない。予定の無い日は一日たりとも存在せず、公休にも取引先の名前が書いてあってげんなりする。これから先、今まで以上に休めなくなりそうな気がして更にどんよりと暗い気持ちになった。先輩の妊娠報告を心から祝福できないまま口先だけのオメデトウを紡ぐ先日の自分を反芻して、再び自己嫌悪するという行為を繰り返し、鬱々とした気分に支配されようとしている。こんな気分のときはとことんまで落ち込んでしまいたい。いっそ、そのほうがすっきりするまである。無理に頑張ろうとか、いったん休憩して仕切りなおすよりも、落ちるとこまで落ちきって、そこから這い上がるほうが性に合っていると思う。以前友人に休憩が下手だと言われたことを思い出しながら、私はこういうやり方なんだと自分に言い聞かせた。だから今ここで地の果てまで落っこちてしまったほうがいい。そこからヤケ酒ふて寝ドカ食いで、今までも立ち直ってきたじゃないか。そうだろう。

 手帳を閉じて大きな溜息を一つ吐いたとき、急に目の前が陰った。誰かの長い脚があったから警官かもしれないと一瞬過ぎったのは、紺色のスラックスだったからだ。恐る恐る足から頭に視線を移すと、高いところに月島蛍の顔があった。逆光で表情は見えない。

「まだいたの」
「月島、サン」
「サンはいらない。隣いいよね」
「は? よくない」

 私の返事は聞かず、月島が静かに座った。見上げても大きいし、座ってもそれなりに大きい。大学のときよりさらに体格が良くなっているような気がするから、きっとまだバレーは続けているんだろう。月島は一応私の了解を伺うような言葉を挟んでおきながら、実際の行動は素早く相手の返答は関係ないとでもいうような行動に若干腹が立つ。よくないって言いましたよね。聞こえてませんか。今は誰にも会いたくないうえに、仕事モードもオフにしたところなのに無遠慮極まりない。一人にしてくれと言いたいが、そこまで礼儀知らずではないし、そういうことを易々と言える間柄でもなかった。小学生の頃ならいざ知らず、月島とまともな言葉を交わさなくなってから十年以上は経っている。愛想笑い一つさえできずギスギスする私をよそに、月島は洒落たいけ好かない紙バッグをゴソゴソと漁っていた。いい匂いがしているけれど、お腹は空いてない。今は飲まず食わずで突っ走って、プツリと切れたところで泥酔するまで飲んだくれたい。そんな気分なのだ。放っておいてくれとそっぽを向いたままの私の事なんか微塵も気にする様子はなく、洒落た紙コップを二つ取り出すと、その一つを私に寄こした。間髪入れずにベーグルサンドが入った袋も渡されて、意図せず両手が塞がってしまう。サーモン&クリームチーズだなんて美味しいに決まっている。自分にもまだ食欲が残っていたのかと驚いていたら、突き返すタイミングを逃してしまった。月島が自分用に買ったサンドイッチの包装を開ける姿を横目に、私は心の中がぐちゃぐちゃになっていた。なんなんだこの状況は。私のことは村人Aとして通り過ぎて欲しいのに、突然勇者側のパーティーメンバーが話しかけてくる。関係ない。私と月島の人生は交差しない。してはいけない。別世界の人間だから。

「ドウゾ。このパン屋、わりと美味しい」
「え、ああ、そうなの」

 こういった場合の適切な反応、すなわちアリガトウが言えずに固まってしまう社会人四年目。取引先からの逆接待の相手が月島でなければ、こうはならなかったと思いたい。片手はホットドリンクで温くて、もう片方はベーグルサンドで冷たい。頭の中も身体も混乱している。どうしようかとモタモタしながら月島を見ると、昔と同じく眼鏡のレンズ越しからちらりと窺うように見ているのがわかった。でもそれにどんな反応をしていいのかまではわからない。幼いころから知っている月島とはいえ、彼とは別に親しくなかったし、小学校高学年くらいからまともに話した記憶がない。記憶の中の月島は不愛想で視線の合わない、陰気な男の子だった。そのままのイメージを引き摺って中高大学と月島と同じ学校へ通ったが、彼のことは終ぞわからぬまま会わなくなった。だからなおのこと、今の月島蛍なんてもっとわからない。

 分厚いスリーブがついた紙コップから温もった紙の匂いと柔らかなコーヒーの香りが立ち昇る。月島が中身はカフェラテで砂糖は無いと言いながら、自分のぶんを一口啜った。月島のほうからはココアみたいな甘い香りがした。

「知り合いが今にも線路に飛び込みそうな顔してたらさすがに心配になるでしょ」
「一回落ち込みきったほうが楽になる派だから放っておいてください」

 自暴自棄になっているからもう何も気にならないと思っていたが、私の返事にハハハと声を出して笑う月島には腹が立った。自分が一体どんな酷い顔をしているのか見てみたい気もするけれど、人の顔に文句をつけられる筋合いはない。ハァ、とわざとらしく溜息を吐いてみる。月島は大きな口をあけてガブリとサンドイッチを齧った。

「こういう時は一人にならないほうがいいんじゃない」
「傷心の女子につけこんで何のつもり」
「別にそこまで飢えてない。帰りの電車で飛び込まれても後味悪いってだけ」
「意地悪なこと言うところ、相変わらずなんだね」

 昔から彼は皮肉屋だ。今も変わらずそうらしい。私が言い返したあと、月島は一言もしゃべらずパンをいくつか食べ、甘い飲み物を飲み干した。私はと言うと、慈悲深い月島さんに恵んでもらったカフェラテとベーグルを持ったまま目の前をうろうろする鳩を眺めていた。鳥はいいよな。働かなくても飯が食える。好きな時に寝て、空を自由に飛べるじゃない。もういっそ詩を詠みながら旅をしようかとさえ思ってくる。別の才能が開花して有名人になるかもしれない。それか宝くじを買って南の島で悠々自適に暮らすとか。くだらないことを考える余裕が少し戻ってきたのか、現実逃避をしているだけなのか、この世の終わり思考は少しマシになってきた感じがする。分け前無しと判断した鳩は反対側のベンチのOLのほうへ行ってしまい、少し寂しい気持ちになる。誰か側に居て欲しい。鳩でもいいから。

「いらなかったら捨てとくけど、それ」
「せっかくだし、貰う」

 我が社のお得意さまから頂いたありがたいベーグルの包みを開けて中身を取りだすと、美味しそうに見えたから口に入れてみた。月島の言う通り、わりと美味しい。モチモチ生地もさることながら、小麦の味をしっかり感じる。カフェラテはパンチ強めの深煎り豆がしっかりと主張していて好きなタイプだった。しみじみ旨いと泣きそうになる。疲れ切っているのかな。そんなとき、たとえ相手が別に仲良くもなんともない月島蛍だったとしても、若干気持ちが揺れてしまう。まるで中高生から何も成長してないみたいな気持ちになりながら、月島を見てみた。相変わらずなんだか不貞腐れたみたいな顔をしていて、早く食べ終わったほうがいいんだろうなと思った。友達やチームメイトといるときは割と楽しそうにしていたと思うけれど、クラスにいるときや大学で見かけたときなんかは、ツンと澄ましているパターンが多い。お腹に何か入るとくさくさした気持ちが和らいだ。美味しいは正義なのかもしれない。

「ごちそうさま。ありがとうございます」
「どうも。お口に合ってよかったです」

 私がぺこりと頭を下げると、月島も頭を下げた。結局昼食をご馳走してくれただけでなく、ゴミまで片付けてくれた。これから会社に戻ると言うと、私がさきほど渡した名刺を出してじっと眺め始める。先輩と同じデザインで何か特別なことが書いてあるわけでは無いのに、裏まで確認していて何か失敗でもしただろうかと不安になってくる。

「ええっと。きっちり引継ぎして、次の次くらいから私が単独で来ることになると思います」
「携帯ないの。会社にかけても君たちしょっちゅう留守だから連絡とるの大変なんだよね」

 月島に言われて、ああそうか、確かにそうだなと思った。というよりも、普段なら自分から伝えていることなのに、すっかり忘れていた。そもそも会社も個人で携帯を持たせるなら名刺に印字していて欲しい。慌てて社用携帯をバッグから取り出す。未だに自分の番号をすぐに出せないので、裏にラベルテープを貼っている。私が番号を読み上げると月島は大きな溜息を吐いて、胸ポケットから取り出されたボールペンと共に名刺を返してきた。ここに書けよってことらしい。バレーボールのキャラクターがついたボールペンに思わず笑ってしまいそうになるが、月島らしいともいえる。まだバレーを続けているというし、彼にとってきっと大切なものなのだろう。

 大人のビジネス用挨拶を交わし、会社へと戻る。まさかの知り合いに再会で驚いたが、月島のおかげでなんだか少しだけ前を向けた気もした。高く上った太陽に真上から照らされ、物語の主人公になったみたいな気持ちが湧いてくる。自分の単純さに感謝しながらアスファルトを踏みしめて歩く。とにかく目の前のことをやるしかない。