一難去ってまた一難というけれど、一難去ったと思えば三難も四難もやってくる。思い返せば私の人生は、いつだってピンチのときにさらに災難に襲われてきたような気がする。幼稚園の卒業式では緊張のあまりもうすぐ小学生だというのにお漏らししたし、小学校ではたった一度の言い間違いから変なあだ名で呼ばれ続けたし、中学校ではあの学校では珍しい帰宅部として白い目で見られていたし、高校は受験から当日高熱を出して二次試験ギリギリ合格だった。高校も大学もそれなりに楽しく過ごしたけれど、失敗もたくさんしてきた。そういう星の元に産まれたのだと思って運命を受け入れて、なんとか対処していく他ない。そう思いながらも、今日も仙台市博物館へと向かう足取りは軽いとはいえなかった。正直、ここへ行くのはかなり気が重い。我が社と長年取り引きがあるからやりやすい現場だと先輩は言うけれど、仕事内容より、職員に月島蛍がいるということが、私にとって憂鬱な案件なのだ。幼いころから知っているだけの月島とあまりにも何もなさすぎるのに、顔見知りであるという気まずさからやりにくいことこの上なく、ここ最近で一番行きたくない現場になっている。
というのも、社用携帯を教えたあの日以降、何度か月島から直接連絡をもらっている。引き継いだばかりで過去の資料に目を通したり先輩に聞いたりしながらなんとか応答できてはいるが、電話越しの月島から〝そんなこともわからないのか〟という圧をビシバシ感じる。小さなため息やちょっとした無言時間などで、じりじりと追い詰められてしまう。確かに私は、きちんと引継ぎをします、とは言った。けれど、ただでさえオーバーワーク気味な今、交代したばかりの案件に手を煩わされたくないというのが本音だ。仕事はおたくの博物館以外にもあるんですよ、と言いたくなってしまうのは、相手が顔見知りで皮肉屋の月島蛍だからだと思う。いつも鋭い視点からの質問や要望にすぐ返答できず、頓珍漢な返事をしたあとの真顔や沈黙がグサグサと胸に突き刺さる。素性を知らないハジメマシテの相手ならこんな気持ちにならなかったのに、幼稚園のころから知っている月島から喰らう攻撃は一発一発が鋭くて痛いし、今までの彼がチラついて上手く躱せない。
思い返せば、幼いころからなんだか付き合いにくい相手だったように思う。年の離れた兄の明光くんと遊んだことはよく覚えているのに、弟の蛍と何をしていたのかと聞かれると、あまり思い出せないでいる。こんな私でも、あちら側からすると、なんと、やりやすい相手らしい。先輩と話すときと違って、私への言葉には遠慮が全く無い。まるで友人と話すみたいな距離感だ。でもそれって、社会人として間違っているんじゃないですか、と言いたい。そもそも月島と私は全く気安い関係ではなかったし、今はもうビジネスなのに失礼だ。本当に頭の先から爪の先まで嫌な奴だと思う。私が混乱したりヘマをするのを楽しんでいるとしか思えない。と、こんな具合に愚痴しか出てこないくらい、とにかくここの仕事はやりづらい。
全部、なにもかも、月島蛍のせいだ。
「十分遅刻」
「ごめ……んッ、や、あの、すみませんっ!」
「まあ、事故渋滞してるの知ってたし」
「はァ、そうですか……。遅れてすみませんでしたァ」
心の中で月島に対して散々悪態をついていたら、巻き込まれたとはいえ盛大に遅刻してしまい、とんでもなくバツが悪い。そんな私のことなんてお構いなく、いつもの攻撃が浴びせられる。社会人なら報連相しろよと言いたいのだと思うが、はっきりしない月島の物言いには、いつもモヤモヤさせられる。確かに一車線道路が事故渋滞していて、想定より時間がかかってしまったのは事実で、一報入れなかったこともまた事実だった。連絡をと思わなかったわけではないが、このくらい許されるだろうと甘く見ていたことも見透かされているようで冷や汗が止まらない。結局この状況では何を言っても言い訳になってしまいそうだから謝る以外の選択肢はないのに、謝罪してもそれに対して月島の反応はない。その態度と無言の圧力をもって、お前が悪いと言われているような気がするから私は更に小さくなった。依頼主と受託者の関係だとしても、ビジネスパートナーとしてもう少し対等な関係であってもいいじゃないかと考えつつ、なんて意地の悪い奴なんだと月島の後ろ姿を睨みつけてやる。スラリと高い背丈だけでもいけすかないくせに、今では逞しい体幹とがっちり太い腕をしていて全く隙が無い。せめてちょっと崩れた顔をしているだとか、語尾が気持ち悪いだとか、マイナスポイントがないと不公平だと思う。そんなことを考えながら月島の背中をまじまじ見ていると、唐突に振り返った彼に訝し気な顔でじろじろと見られてしまい、己の矮小さが恥ずかしくなって胸がざわつく。ただでさえやりづらい相手なのに、百九十を超える長身から見下ろされるととんでもなく居心地が悪い。だから、いつも愛想笑いを顔面に貼り付けてやり過ごすのが精一杯なのだ。
何を言われるのかと身構えたのに、結局月島は何も言わずにまた前を向いて無言で歩いていってしまった。歩幅が違い過ぎるせいで小走りになりつつ追いかける。大学の頃より広くなっている背中に向かって、こいつが社会人としてまともなコミュニケーションを取れているとは到底思えない、と心の中で悪態をつく。本当に、ここの仕事はやりにくい。
まあ色々言いたいことはあるけれど、とにかく。それはそれ。これはこれ。私の個人的な感情はひとまず脇に置いて、ここは職務を全うせねばなるまい。
ここ仙台市博物館には月に二回ほど訪れて、常設展示や特別展示の企画運営をサポートしている。基本的には年間スケジュールに沿って進めていくし、毎年恒例の展示内容が大幅に変わることは無い。だいたい同じようなサイクルで企画が入れ替わり、内容に応じて展示方法を変更するのが基本だ。こちらにはこの案件を長年担当しているベテラン社員のリーダーがいて、私はその手足となり現場の御用聞きや細かい修正をする役割を担っている。いつの時代も、私のような下っ端が右往左往して現場は回っているということだ。私の前では妙に態度が大きいあの月島蛍も、同じく入社四年目。職場ではまだ、一兵卒に違いない。なぜそう思うかっていうと、いつも途中で月島の先輩が顔を出すし、月島はその先輩には何も言わないので、頭が上がらないに違いない。まあ、社会人四年目の立場なんてこの程度だ。お互い大変だよねえ、なんて心の中でほくそ笑むことが精一杯だけれど、月島が黙っているのを見ると、なぜか気分が晴れやかになる。我ながらいい性格をしていると思う。
一応説明のためにざっくりと私たちの業務内容を言うと、展示のパネルがどーだとか、配置があーだとか言いながら、次回の企画に生かすべく検証を重ねることだ。それを報告書に纏めたり持ち帰って相談したりして、現場を修正していくというのが大体の流れである。メモを取ったり写真を撮ったりしながら一緒に展示を回り一通り話して、約一時間。お疲れ様でした次は何月何日です、と大体の時間を伝えて、適当な時間にお昼休憩に入ったらいいよ、と産休に入った先輩は言っていた。要するに、私はただの伝書鳩であればいい。すると確かに、新しく何かを始めることさえ無ければ、難しいことなんて一つもない。博物館側の担当者が、月島蛍である以外は問題無いのだ。
一通りルーチンワークをこなして平和的に終われそうな気がする。終わってほしい。終わってくれ。そう願いながら、ぺこりと頭を下げた。
「じゃあ、今日はこれで――」
「まだ渋滞してるって」
だから何ですかと言いたくなるのをぐっと堪え、愛想笑いをしてそそくさと立ち去る。駐車場でしばらくやり過ごし、渋滞が落ち着いたら帰社すればいい。もういっそ直帰してもいいかとさえ思う午後十六時半。今日は別件があったから予定を繰り下げてもらい、午後からの訪問になっていた。定時までちょっと早いのは黙っておいて、十七時で上がったことにしてしまいたい。そんなことを考えながら、博物館のエントランスを出る。後ろから着いてきている月島蛍の存在には、気づいていないふりをしながら。
「ねえ。今日はこのまま帰るつもり?」
「……ええ、っと。多分、一旦、帰社する予定、かも?」
唐突に声をかけられ、動揺のあまり怪しい返事をしてしまった。サボろうとしているわけでは無いんですという言い訳が頭の中をぐるぐる巡り、どういう返事がベストなのか必死で考えてみる。この一瞬で「アイツ定時前に帰ってました」と密告する月島蛍を想像し、なんて性格の悪い奴なんだと憤るところまでシミュレーションした。まあ確かに先輩よりは不出来な担当者だとは思うけれど、そこは引き継いだばかりなので大目に見て欲しいし、仮にもこのまま帰ってやろうとしていたとして、貴方に迷惑をかけるわけではないんですよ、と言いたい。
「まだ渋滞してるってさっき言ったよね」
「うん。でも、迂回して戻るつもり」
「何台も絡んだ玉突き事故でしばらくどこも混んでると思うけど」
「だからって、どうしろって言うの」
私は職場を一歩でも出ればプライベートと認識している。だからつい、月島にビジネスパートナーらしからぬ対応をしてしまった。一取引先の一人として心配してくれているであろう月島の気遣いを無下にするような言い方だったと若干慌てていると、私の動揺に気付いたのか月島がフッと息を漏らして笑った。
「知り合いが困ってたら少しは気になるでしょ。前にも同じようなこと言ったけど」
「困ってるっていうか、ちょっと時間潰そうかなって思ってるだけだし」
「親切心からお茶でも出そうかと思ったのに――」
「え、何のために?」
純粋に疑問だから聞いただけなのに、月島の表情が若干険しくなり何か悪いことを言ってしまったらしいと気付く。しまったまだプライベートじゃないと気持ちを切り替え、親切心のお茶を頂くため応接室へと戻る。月島の意図がわからず恐ろしいが、困っている知り合いを助けようという優しさのようなモノは持っているらしい。
平日の博物館は静かでいい。閉館間際なせいか受付付近には警備員しかおらず、空気が透き通っているみたいに静まり返っていた。月島と私の靴音だけが響き、まるで異世界に来たみたいだ。恐竜の骨とか古代生物とかが展示されていたら、動き出しそうな雰囲気がある。いつか見た映画みたいに、甲冑なんかは夜になるとウロウロしているかもしれない。なんてくだらないことを考えながら、月島の後をのろのろついて行く。
応接室へと入ると座るよう促され、革張りの高そうなソファへと腰掛けた。思いのほか沈み込んでしまい驚きつつも、こっそり辺りを見回してみる。美しい工芸品が上品に飾られ、手入れも行き届いているようだ。いつも打ち合わせは現場か会議室が多いから、ここに通されたのは初めてだった。この物々しい雰囲気は、きっと県内外の偉い人たちが通されているんだろう。
慣れた手つきでお茶を淹れた月島が戻ってきた。素朴な色味と珍しい模様の湯呑は手馴染みが良く、遠い昔、祖父母宅の水屋に入っていたような気がする。普段こういった伝統工芸とはあまり縁がなく、ここの担当になってから初めて自分の育った場所の歴史を詳しく知ったほどだ。さすが博物館とでも言うべきか、当然のように出てくる美しい工芸品に感嘆の声が漏れる。そんな私を見て月島はニヤリと笑って、満足げに胸を張った。珍しくわかりやすい反応に少し驚いたと同時に、昔よく遊んだころの月島蛍が思い起こされた。おぼろげな思い出を辿ると、彼はわりとおしゃべりだったし、そこそこ笑っていたように記憶している。このまま湯呑やお茶に関する蘊蓄でも語りだすのかと思ったけれど、結局は何も言わずに静かに湯呑を眺めているだけなので拍子抜けだ。茶を啜る音だけが応接室に響く。ここで気まずく思い、気を使って話しかけでもしたら負けな気がするから、月島が何か言いだすまで黙っていようと決意する。こんなことを考えているなんて、意地が悪いのは私のほうだ。
長い沈黙の後、誰かと連絡を取っていたらしい月島が口を開いた。
「もう大丈夫みたいだよ」
「ありがとう。……もしかして、誰かに聞いてくれてた?」
「丁度よく山口も渋滞に巻き込まれてたから」
「えっ。ヤマグチって、山口忠? ずっと仲良いんだね。小学校からじゃない?」
スマートフォンの向こう側にいる人物について、珍しく緩んだ口元を見る限り親しい友人なのだろうと予想はしていた。いつも月島にくっついていた山口が、高三にはあのバレー部を束ねていたので驚いた記憶が蘇る。そうか。まだ山口忠と仲良くしているのかと、なぜか勝手に安堵している。月島は幼いころから体格に恵まれていたけれど、どこか内気なところがあったから友達はそう多くは無さそうだと勝手に心配していた。高校の三年間で色々とあったみたいだけれど、クラスではいつもの月島蛍だったし、家は近くて親同士は仲が良いのに、その子どもである私たちは全然仲良くなんて無かった。思春期を経て挨拶以外の会話はほとんどせず、すれ違うだけの毎日。だから、青春時代から今までの彼のことを何も知らない。何を感じて、どのような思いでバレーを続けているのかなんて、想像さえできないのだ。
月島と出会ってから今までを自分勝手に逡巡していると、冷笑を浮かべた彼が私を見つめていた。
「君とは幼稚園からだけどね」
「まあ、……そう、か。そう思えば長いね」
「ハハ。僕たちは別に仲良くないって?」
「……あのさあ。返答に困るんだけど」
「困るも何も、顔に書いてあるから」
「……親同士は、仲良かったけどね」
「今も食事したり旅行行ったりしてるみたいだし」
確かに月島蛍との出会いは幼稚園にまでさかのぼる。けれど私は幼少期の記憶が曖昧なタイプで、親からは「蛍君とはすごく仲良く遊んでた」と言われても、正直、あまりはっきりとは覚えていない。親たちの言動から察するに、大人になっても仲良く幼馴染でいるものと思っていたらしいけれど、気難しい月島と私は、あまり仲良く過ごした記憶はない。家が近い。ただそれだけで永遠に仲が良いなんて、創作の中だけの話だ。彼と私とは別の人間で、性格だって全然違う。子どもにも相性というものはあって、月島と私はキャラクターが違い過ぎた。それに彼にとっても、私なんて隣人以外の何物でもなかっただろう。そもそも性別が違うから、遊びだって違ってくる。だから月島蛍と私が仲良く無いことは何ら不思議ではなく、こういったことは、どこにだってある話だ。私と月島がいかに仲良く無かったか、心の中で長々と言い訳をしてみる。こういうことが顔に書いてあるというのなら、彼は読心術でも身に着けているに違いない。
「明光くん元気? 昔、よく遊んでもらったなあ」
「なにこの久しぶりに会った親戚みたいな会話」
プププと吹き出し笑いをする彼を見て、小学校の教室の匂いが感じられた。ああそうだ。月島蛍は、悪戯っぽく笑うんだった。
「……なんか変な感じだよね。月島といると、オンオフできない」
「僕も一桁年齢の頃からずっと一緒に過ごしてきた君と、ここで再会するとは思ってなかったけどね」
弧を描く目からある種の親しみを感じ、懐かしさが込み上げる。追いかけっこをして走り回った公園の夕暮れがフラッシュバックして、なぜか胸がときめいた。心の底では、歳を重ねるごとに遠くなってしまった幼馴染を寂しく思っていたのだろうか。
「ほんとにね。はあ。もう帰ろ」
「またヨロシク」
「はーい。おつかれ」
いつまでもここで感傷に浸っているわけにはいかず、鞄を肩にかけて立ち上がる。月島はその場でヒラヒラと手を振って私を見送った。嘘っぽい笑顔を向けていて、なんだが気持ちがざわついてしまう。
ずっと昔から知っているというだけで、友達ではなかった月島蛍。
私たちはすごく変わってしまったような気もするし、全然変わっていないようにも思う。
今日でまた、どちらが本当の私たちなのかわからなくなってしまった。