柴さん、先輩のこと好きなんちゃいます?

番外編

 まもなく終業時刻の妖術局本部。誰もいない会議室で柴と真城は一服していた。今日は何事もなくふわふわ過ごしただけの一日だったが、夕刻が近づくとつい休憩したくなる。まだ新しいオイルライターを点けたり消したりしながら、柴は鼻と口の両方からモクモクと煙を吐き出した。

「またこんなとこで……。バレても知らんですよ、俺」

 柴を慕う後輩、真城秀治が困ったように眉をひそめている。しかしその実、大して困っていない。大概のことは柴の妖術でなんとかなるからだ。今までもそうだったし、これからもそうだろう。そんな真城の余裕を見抜いてか、柴は小さく「アホか」とつぶやきニヤリと笑った。

「そのまえに逃げるからバレへんねん」

 それほど汎用性の高い妖術である。初見で躱すことは不可能で、理屈を知っていたとしても簡単に対処できるものではない。

 ――ただ一人を除いては。

「何がバレないんだ?」

 肩にポンと載せられた手。挑発的な声。振り返らなくても誰だかわかる。ひやりと背筋に這う威圧感。切りそろえられた短めの爪に、清潔感のある匂い。覚えたくもないのに身体が勝手に覚えている。

 妖術局最強クラスの実力を持つ女。いつも柴を目の敵にしている、まさしく天敵だ。

「ゲェッ!? 東北行ってるんちゃうん!?」

 飛び跳ねて臨戦態勢を取ろうにも、身体の自由が効かない。なにかと目の敵にされ続けてきたせいで、恐れが本能レベルで脳髄に染みんでいるらしい。

「うわぁー! 言わんこっちゃない! 俺止めましたよ!」
「また煙草か。それになんだ、このいかがわしい本は」
「ちゃいます! これは落ちてただけで――」
「言い訳は聞き飽きた。お前はいったい、いつになったら真っ当な生き方ができるんだ?」

 現場に散乱する証拠をぐるりと見回した女は、大きな溜息を吐いた。何度言っても変わらない。その傲慢さと自己への過信が、いつか取り返しのつかない事故を起こす気がしてならなかった。

* * *

 嵐が去ったあと。柴は再び煙草に火を点け、紫煙を勢いよく吐き出した。

「はー。クドクドネチネチ……。ホンッッッマにうっとーしーわ!」
「あーゆーときは、サクッと謝ったらええ思いますけど」
「なんで俺が謝らなアカンねん!」

 真城の意見はもっともで、さっさと終わらせたいのであれば適当に反省の姿勢を示せばいい。けれど柴は先輩のお説教にいちいち噛みついて反論し、不遜な態度を取り続ける。どこからどうみても柴が悪いのは明白で、弁解の余地はない。ほかの者なら適当にいなすくせに、ことあの女となるとふてぶてしいのは不思議でならない。

 煙草の煙と共に次々と女の愚痴が出てくるのを聞きながら、真城は「まだかなあ」とぼんやり晩飯のことを考えていた。

「もうただの悪口なってますて」
「悪口しか出てこんやろ! あいつ絶対、男おらんわ! 一生処女や! まんこに蜘蛛の巣張ったままババアなっとけ!」
「エグめの陰口、聞くに耐えへんわ……」

 柴は「無駄に姿勢ええねん。圧あるやろ」とボヤきながら、フィルターぎりぎりまで短くなった煙草を携帯灰皿に押し込んだ。苛立ちを隠すことなく次の煙草に火を点け、肺一杯に煙を吸い込む。ふうーっと吐きだし終わって少しは落ち着いたかと思ったのに「怪我したときだけやたら優しいねん。統一せえや」と半ギレで語りだす。そのうえ「たまに笑顔みせて調子狂わせてきよるし」とのたまい、煙草の空き箱をぐしゃぐしゃに握り潰した。さらには「坊さんの説法より説教長いクセに絶対噛まへん」とまで言いだす始末。もはや褒めているのかけなしているのかわからない。ゴミ箱へ向かって投げられたマルボロは嘲笑うかのように床へと転がったが気にもとめず、柴は「なんでアイツ俺の行動だけいちいち把握してんねや」と舌打ちとともに吐き出した。でも、真城すら気づかない些細なしぐさを詳細に語る柴も、大概だった。周りから見れば、犬猿の仲というより、魚と水としか思えない。

 真城は真剣な表情のまま柴の前髪を眺め、明日のパンのことを考えていた。

「お前もおかしいて思うやろ!?」
「同意求められた……。さすがの俺もそこはスルーさしてもらいます」

 何本目かの煙草を深々と吸い込み、柴はこれでもかと声を大にして言う。

「無駄にピチピチの服着てアピっても、誰もお前のことなんか見てへん!」
「でも先輩って、意外と胸ありますよね」
「ヴェッ!?」

 柴は思わず素っ頓狂な声を出して、安物のパイプ椅子からズッコケて崩れ落ちた。どれだけ予想外であっても、脊髄反射的にリアクションをしてしまう己の出自が憎い。

「なんぼデカくても、アイツのなんて頼まれても揉むかい!」
「いやなんか、女優の誰かに似てるって隠れファン多いみたいスよ。知らんけど」
「俺は整った美人より妹系のかわいい子が好きやねん!」
「黙ってたらカワイイ系ちゃいます?」
「どこがカワイイ系やねん! コワイ〜系や!」
「コワイー系て。でもすれ違ったとき、ふわっといい匂いしません?」
「解釈違いや! 出直してこい」
「解釈ちゃうくて事実やし。もうあんま気にせんと、ほっといたらええのに」
「アイツから絡んでくんねん! こっちは視界にも入れたないわ!」

 柴は鼻息をフンフン言わせながら立腹した。点けたばかりの煙草の火を消し、パイプ椅子を限界まで傾け、ふんぞりかえってそっぽを向いている。いくら真城であってもこれ以上は許さんで、とでも言いたげに、眉間にしわを寄せて野良犬みたいに唸った。

 かたや真城は明日のパンをいちごスペシャルに決め、柴に向かって一撃を放つ。

「逆にそこまで気になるって、柴さん、先輩のこと好きなんちゃいます?」
「ハァ~~~~~⁉」

 真城本人に攻撃の意図はない。しかし柴には何らかの効果があったのか、思いもよらぬダメージを喰らっているようだった。

「んなわけないやろ! アイツに好かれても全然嬉しないねん!」
「面倒見ええし、そんな悪い人ちゃうと思いますけどね」
「真城おまえ……。やたらアイツのこと庇うやん」
「とばっちり以外、俺被害無いですもん」

 軽めの口調で真城が言う。脳内では北海道チーズ蒸しケーキと雪印コーヒーも買って帰ろうと決め、財布の中身を思い出している。そんなことは露知らず、柴は怒りの炎を瞳に宿していた。完全に独り相撲である。

「今に見とけよ……。いつか土下座さしたるわ!」

 真城は溜息を吐きたい気持ちとニヤニヤ笑いたい気持ちを抑えながら顔色ひとつ変えず、「そーですね」とそれらしい返事をした。毎度聞かされるこのくだりに半ば呆れつつ、密かに行く末を楽しみにもしている。

――土下座してんの、絶対柴さんのほうやん。

 真城の妖術は予知ではない。けれど、はっきりと見えた。

 柴登吾が先輩に、土下座をしている姿が。

* * *

 真城と帰ろうと思っていたのに「明日のパン買わなアカンので」と断られ、柴は一人とぼとぼと歩いていた。さっさと飛べばいいが、妖術の無駄づかいは身体によくないらしい。それになんだか、孤独に浸りたい気分だった。天敵には絡まれるし、相棒には振られるし、散々な一日だ。

 ただでさえ最悪の一日になりそうだったのに、さらなる不幸がおとずれる。廊下の向こう側から柴の天敵、先輩が威風堂々歩いてくるではないか。

「柴、今帰りか」

 窓から差し込む夕焼けを背負う姿は、神々しささえある。一切無駄のない歩幅と皺ひとつないスーツは、一日仕事を終えた夕刻の空気にまるで似つかわしくなかった。あの女が立っているだけで周辺全てが正される。

「なんか問題あります? やること全部やりましたァ」

 ピリつく空気を肌で感じ、柴はポケットに手を突っ込んで背を丸めた。呑まれたくない。その一心だった。柴の脳内では、さきほどまでの会話が蘇っていた。真城の『柴さん、先輩のこと好きなんちゃいます?』がリフレインする。そんなわけないと首をブンブン横に振り、雑念を掻き消した。

「少し訓練に付き合ってもらおうかと思っただけだ」
「そんなんせんでも先輩一人で日本沈没させそうなくらい強いから大丈夫ちゃいます?」
「そういう油断が命取りになると何度も言っているだろう。……だがもう帰るというのならば、ほかの者に頼もう」

 わざとらしく外された視線に、何らかの意図を感じてしまう。苦笑いする先輩が、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。いつもならこんな気持ちになんて絶対ならない。けれど今日だけは何かが違う。真城の言葉がしつこく耳に残っている。

――俺がアイツのこと好きなんて、そんなこと、あるわけないやろ。

 たっぷり数十秒の間を持たせてから、大袈裟な溜息を吐いてみせた。肩をぐるぐる回して、先輩の反応を伺ってみる。

 すると、どうだろう。そこには、期待に瞳を輝かせて口角をうずうずさせる女の姿があるではないか。これはただの戦闘狂が悦びに打ち震えているだけなのか。それとも後輩に特別な感情がある乙女の顔なのか。

 そう考えた瞬間。

 ドクン、と心臓が跳ねる。

 自覚すれば更に鼓動は速まり、手のひらにじわりと汗が滲む。無意識に上がる体温のせいか、身体が火照る。いつも恐れからか直視できなかった女を舐めまわすように眺めている自分に気付き、柴はごくりと生唾を呑んだ。

 得もいわれぬ高揚を感じる。もしかすると、真城の予想は大ハズレかもしれない。柴が先輩を好きなのではなく、先輩が柴に好意を持っているのではないか。そう思わせる不思議な反応だった。もし、そうだとしたら――。

 恋愛において、惚れたが負け。こうなれば、先輩なんて怖くない。

 柴は今世紀最大のニヤつきを隠すことなく晒した。未だかつて先輩に勝てたことはないが、勝ち誇った顔で言う。

「やらんとは言うてませんけど? 俺が勝ったらビール奢ってくださいよ」
「何を言っている。お前未成年だろう。それに私に勝つなんて百年早い」

 いつもの高笑いを皮切りに、先輩の口元が愉快そうに吊り上がる。次の瞬間、柴は組み伏せられていた。毎度勝負は一瞬だ。手足はほとんど動かせず、妖術もあっけなく封じられ、一瞬のうちに背後を取られてしまっている。柴は絞め落とされそうになり朦朧とする意識の中、密着する女の肉体を感じとっていた。いつもなら気にも止めていなかったのに、真城の余計な一言のせいで意識してしまう。

 気づきたくなかった。背中に押し付けられた胸は思いのほかボリュームがあることを。理解わかりたくなかった。腰と股関節に絡みつく足は、しなやかな筋肉をつけながらも女性らしい柔らかな肉感を保っていることを。刻みたくなかった。終業時間を過ぎてなお、上品な色香を思わせる甘美な匂いがすることを。

 女が柴の耳元で囁く。

「もう降参か? 口ほどにもないな」

 乱れた息と熱が直接脳みそにぶち込まれたような刺激を感じながら、柴は意識を手放そうとしていた。

――やばい。新しい扉開いてまうかも……。

 柴はその夜、先輩でめちゃくちゃ抜いた。