「わぁ! 海にきたね、七海!」
「……暑い」
夏本番。七海とその恋人は、海に来ていた。ぎらぎらと照り付ける太陽に焼かれながら、七海は目を細めた。日々疲れているはずなのに、人はどうして海へと行きたくなるのだろう。気温も湿度も高いがきらめく水面を見ると心躍り、つい波打ちぎわで足先をつけたくなる。ビーチサンダルに入り込む砂さえも心地よく感じてしまうほど、二人は浮かれ切っていた。隠れ家的なビーチだと聞かされて遠路はるばるやってきた海水浴場は、七海の想像していたよりも多くの人で賑わっていた。そのことを少し残念に思って彼女を横目で見ると、全く意に介していないようで、目を輝かせてはしゃいでいる。夏だ海だと一人盛り上がる彼女の後ろにぴったりとくっついて歩く。フリルがふんだんにあしらわれた可愛らしい水着から、ちらつく生白い肌が艶めかしい。
「サンダルで走ると危ない」
「大丈夫……! ッと、あぶな~」
嬉しそうに駆け出す彼女の背中に向かって声をかけた途端、さらさらの白い砂に足を取られてつまづいていた。ほら、言わんこっちゃない。口をついて出そうになる言葉を七海は飲み込み、見慣れない彼女の水着とサンダルの後ろ姿をじっとりと眺める。かわいいと言いたいが、小言とは違ってそういった言葉は思うように紡げない己の性分を恨めしく思う。一方彼女は、振り向かなくても七海がどんな顔をしているかわかった。またネチネチとお説教をしようというのだろう。だから言っただろうという七海の呆れ顔を想像しながら、そのまま前を向き、サンシェードが設置できそうな空きスペースを探すことにした。砂にめり込んだ爪先は冷やりと冷たいのに、太陽に焼かれた砂は熱く、念願の海水浴に来たのだと実感させる。ずっと楽しみにしていた七海との海水浴デートに浮かれまくっている自覚はあるし、バレてしまっている気もする。でも、どれだけこの日を待ち望んでいたかわかって欲しい。たまには普通の恋人同士みたいに、思いっきりはしゃぎたいのだから。
「七海ー! 早くおいでよ!」
「朝から飛ばし過ぎてあとで眠いなどと言わないように」
やれやれ顔で小言を言う七海もまた、うきうきした気持ちを抑えきれずにいた。何週間も前からスケジュールを調整して、この日のために時間外労働だって何度もやった。こだわりの道具を揃えるのも楽しかった。彼女が海で不自由しないように、吟味に吟味を重ねて、快適に過ごせる道具を一通りそろえたのだ。一つ一つ解説しながら過ごしたいが、彼女は聞いてくれるだろうか。いつものようにハテナをいっぱい浮かべた顔で「ふーん。すごいね!」と言われるだろうと予想はしているものの、なぜか語りたくなってしまう。長々続くうんちくを嫌な顔一つせずふんふん聞いている彼女の頭の先からつま先までじっとりと眺め、網膜に焼き付ける。好きだ。彼女と話したい。ひたすらに可愛い。ただ側に居たい。七海がそれを素直に言うことができればいいのだがなかなか言い出せず、つい要らぬことをべらべらと喋ってしまうか、はたまた黙り込むか。そんな変わらぬ自分の性分を厄介だと思いつつも、人間そう簡単に変われないのだ。七海は今もまた彼女を舐めまわすように見つめながら、愛の炎を腹の奥底で燃え盛らせている。果たして七海の想いは、どれくらい彼女に伝わっているのだろう。
「何か買ってきましょう」
「いいの⁉ じゃあ焼きそばとフランクフルトと、から揚げと焼き鳥、かき氷も食べたいし……」
それから、とまだ続きそうな彼女を七海は制止し、お洒落なのに大容量のクーラーボックスを指し示す。そこには凍らせたペットボトル飲料にアルコール類、カットフルーツが入っている。熱中症対策に保冷剤もたっぷりと持参した。
「とりあえず、食事を済ませては。冷たい飲み物はそこに」
「生ビールは絶対に飲みたい!」
ふふふと七海は息を漏らしてほくそ笑んだ。彼女がビーチで生ビールを飲みたがっていることは事前にリサーチしてある。家入のところで嬉しそうに今日のことを話しているところを偶然聞いたのだ。七海も飲むでしょ、と彼女がにこやかに問いかけてきたので、当然だと七海は頷いた。帰りの足の心配はない。なぜならここは、ヴィラ直結のビーチなのだから。なんとかもぎ取った休みを思う存分満喫したい。今日と明日だけは、呪いと無縁でいたいものだ。
七海がヴィラのビーチから少し離れた海の家から戻ってくるにはまだ時間がかかるだろう。彼女はもう一度、自分の身なりをチェックした。サボっていた全身脱毛は今日のために急いで終わらせ、どこもかしこもツルツルになっている。背中の吹き出物やデコルテの肌荒れも気になっていたからエステにも通った。仕事中は怪我防止に露出を極力抑えた地味な服ばかり着ているので、こんなにも大胆に肌を出すことに抵抗が無いわけではない。それでも、今日という特別な日、七海に少しでも可愛いと思われたい。今日のために買った水着を見て七海は何と思っただろう。
水着を着るのは今シーズンで一度きりになるかもしれないけれど、悩みに悩んで選んだものだ。周囲からのアドバイスを整理すると、七海は過度な露出を嫌うであろうということだ。確かに、普段の服装を見る限り七海自身の肌はほとんど隠されている。かつて高専時代に海に行ったときでさえ、長ズボンを履いていた。申し訳程度に履いていたビーチサンダルは灰原が急遽海の家で購入してきたものだった。無理矢理着せられたアロハシャツと大量の荷物を持たされ、終始眉間に皺が寄っていたかつての七海を思い出し、彼女はクスクスと笑った。それから派手な色や柄などは避けた方が無難では無いかといも言われた。なるほど、七海の普段着や自宅のインテリアなどを見る限り、シンプルで洗練されたデザインのものが多い。そうすると、七海が好みそうな水着は露出は控えめでシンプルなカラーが適しているのではないか、ということになる。彼女は百貨店の水着コーナーで二時間悩み、フリルがあしらわれた甘めのデザインのものを選んだ。セパレートになっているが臍は出ず、少しだけ背中が開き気味になっている。胸元はしっかりと隠されているので、しゃがんでも谷間は見えることなく安心だ。これで七海に可愛いと思ってもらえるに違いない。
彼女が念入りな全身チェックを終えても七海は戻らず、彼女はさすがに少し心配になってきた。荷物を置いたまま離れるのは気が引けたが、一人でぼんやりしていても始まらない。ふわふわお花とキラキラビジューが可愛いビーチサンダルをはいて砂浜を進む。不届き者に絡まれていたとしても七海なら問題ないだろうけれど、もしも呪霊と交戦していたとしたら――。一抹の不安がよぎり、ざくざくと音を慣らしながらビーチを駆ける。せっかく二人きりでのんびり過ごせると思ったのに、嫌な予感ばかりが浮かぶ。
***
しばらく進むと海の家が近づいてきた。すぐ側に七海がいることがわかり、彼女はほっと胸を撫でおろす。ただよく見ると、どうやら人に囲まれているようだった。海の家の従業員ではなさそうな、露出度高めで派手な色の水着の女性が三人。店員から受け取ったフードとドリンクを両手に持った七海が、彼女のほうへと向かって歩いてくる。すると三人のギャルたちも付いて来て、七海の身体に触れた。
「おにーさん、超イイ身体してるね!」
「ヒマなら私たちと飲みませんかー?」
既に酔っているのかテンション高めの甲高く大きな声だ。一度触れてしまったことでタガが外れたのか、七海の二の腕や腹の辺りをつついてキャアキャア盛り上がっている。
「七海、ナンパされてる……?」
両手が塞がり振りほどけないらしく、七海は困ったような表情でのそのそ歩いていた。なにやらモゴモゴ言っているが、はっきり聞き取れずもどかしい。ついにギャルたちは七海の進路を塞ぐように立ちはだかり、あっちで飲んでいるんだと言って腕を引っ張ろうとした。もちろんびくともせず、水着ギャルたちは驚き、さらに盛りあがった。彼女らはムッチリとした健康的な身体に自信があるのだろう。きわどいビキニを着てみずみずしい肌を惜しげもなく晒している。真夏の太陽が照り付け、うっすらと汗ばむ様子もまた、官能的だ。彼女はなんだか、悲しくなってきた。
――やっぱりセクシーな水着ギャルのほうがいいんだ。
自分とはまるで違うタイプの女性を目の前に、自信をなくしてしまった。七海はきっとギャルたちと並んでいたほうがいいんだと卑屈になり、踵を返して来た道を戻る。惨めな気持ちがどんどん溢れてくる。少しずつ歩幅が大きくなり、ついには走り出す。可愛いと思って欲しくて選んだ水着もビーチサンダルも、ひどく子どもっぽく思えた。七海はあんなにかっこよくて色っぽいのに、自分なんかが釣り合う訳は無かったのだと涙まで出てくる始末だ。もうこのまま走って自宅まで行くんだとヤケクソになり、真夏の海岸を爆走する。
一方、七海は慌てふためいていた。彼女の様子から察するに、大いなる誤解をされている気がする。なりふり構わず追いかけたいが、フードとドリンクが邪魔だ。七海は「差し上げます」と一言だけギャルたちに告げて両手の荷物を半ば無理矢理押し付け、彼女の後を追った。大人になって本気のダッシュをする機会はあまりない。砂浜を大爆走する男と女。呪霊なんかよりも、生きている人間のほうが奇妙なものである。遠くからさきほどのギャルたちが大笑いする声が聞こえてきた。
「彼女いたなら先言ってもらっていいですか⁉」
「ウチらワルモノになっちゃったじゃん!」
「ちょっとまって彼女サンの逃げ足、超早くね⁉」
どうやら、多少強引なだけで悪い人たちではなさそうだ。
プライベートビーチを抜けると未整備の海岸が続いていた。砂浜にはどんどん小石が多くなり、ついにはごつごつとした岩が目立つようになってきた。七海は少しずつ彼女との距離をつめ、十分に声が届く範囲までやってきた。足元が悪くスピードが落ちてきたところで、彼女の小さな背中に向かって声をかける。
「危ない。ちょっと、止まって」
「七海のバカ! 私なんかより露出度高めのセクシーな子がいいんでしょ!」
ぴたりと彼女が止まる。よくみると、足の爪が美しく塗られていることに七海は気づいた。この日のためにフットネイルもしてきたのだ。砂浜を駆け抜け、磯に差し掛かり、彼女の足元が危ないのではないかと確認した際にようやく見つけた乙女の努力。それまでいったい、彼女の何を見ていたのだろう。ふわふわ可愛い水着も、新品のビーチサンダルも、海色のフットネイルも、気が付けばとても愛おしく感じた。今日のこの日のために手入れをしてきたであろう爪先やメイク。ほんの数日前とは違う髪型。彼女がどれだけこの日を楽しみにしていたのか手に取るようにわかる。七海もまた、今日の海水浴デートを楽しみにしていた。交際して初めての旅行。そんな日に誤解とはいえ、彼女を悲しい気持ちにさせてしまった自分に、七海は腹を立てた。なんとか疑念を晴らしたい。今日のこの日を最高の思い出として残したい。その一心で七海は弁解する。
「誤解です。勝手に触ってきて、両手が塞がっていたので――」
「ずっと喋ってた!」
「注文したものがなかなか出てこず、待っていたら一方的に――」
「そんなの、知らな――ッ⁉」
彼女が大きな岩を横切ろうとした、そのとき。
蛸の足のようなものが岩陰から何本も出てきて、彼女の足元へと絡みつこうとした。しかしさすが呪術師、すぐに気づいて避けようと身を捩る。急所はそれたが着地がうまくいかず転んでしまい、咄嗟に七海が庇いに入る。
「危ないッ!」
彼女と蛸の間に入り、気色悪い蛸の足から身を以て守った。七海を盾に彼女は無事だが、代わりに七海は吸盤のような部分から分泌されたどろどろの粘液を頭からまともにかぶってしまっている。
「えっ、七海! 大丈夫⁉」
「……怪我はないですか」
「私は平気だけど、七海がヌルヌルになっちゃった……! どうしよう……」
「蛸呪霊が出した粘液のようです。クソッ、不愉快だ」
無色透明で無味無臭。この物質がいったいなんなのかは不明だが、今のところ気持ち悪いという一点以外、特にダメージは無い。蛸の呪霊はすぐに祓ったし、それに伴い液体も自然消滅しはじめた。攪乱のつもりだったのかもしれない。七海は立ち上がり、自分自身の身体の具合を確認した。何の異常も感じられず、特に問題無いだろう。彼女も無傷のようだ。突如現れた呪霊に驚かされつつも彼女に追いつくことができたし、これからゆっくりと話し合って誤解を解けばいい。そう思って彼女を見やると、頬を染め、なにか言いたげにしている。七海が口を開こうとしたとき、彼女が割って入って鼻息荒く、興奮気味に食って掛かった。
「それって、絶対ダメなやつだよ! へんなヌルヌルが七海に纏わりついて、エッチな気分になっちゃって、理性が働かなくなるんだよ!」
勢いよく一気にまくし立てた彼女がなぜか恥ずかしそうにしている。確かに、彼女の言うことも一理ある。理性が働かなくなるかはともかく、得体の知れない汁に妙な作用が無いとも言いきれない。七海は手を握って開いて、肩を回し、飛び跳ねてみた。肉体の動きはいつも通りだ。彼女の言うような気分の高揚もなく、普段通りの自分であると七海は再確認した。
「今のところ問題ありません。呪力も残穢全く感じない」
「本当に大丈夫? ムラムラしちゃって私のこと無理矢理犯そうとするんじゃ……」
彼女は訝し気に七海の頭の先からつま先まで、じっくりと観察しはじめた。どこか、なにか、変になっているかもしれないと言いながら。
「呪霊も祓ったし特に何も変化はないようです」
「遅効性の毒かもしれないよ。ちょっとずつ我慢できなくなって、いきなり私に襲い掛かってくるとか……」
今度は胸や腕、腰回りなどをぺたぺたと触りながら七海の身体を確かめている。臀部や鼠径部にも手が伸び、大腿、ふくらはぎ、つま先まで白魚のような手がするりするりと降りていく。その手つきはなぜか、夜の情事を思い出させる。――先程から、どうも彼女の様子がおかしい。
七海は眉間の皺を深くして彼女を見つめた。今日は快晴。青空には雲ひとつなく、真夏の太陽が彼女の白い肌に容赦なく降り注ぐ。額には汗が滲み、こめかみから顎を伝って大粒の汗がぽたりと胸元に落ちた。何度も見てきた彼女の身体のはずなのに、水着を着て真昼間のビーチで改めて見ると、なんだか別人のようにみえる。妖しげな雰囲気を身に纏い、七海の身体に手を這わせながら、舌なめずりをしているこの女性は、本当にいつもの恋人なのだろうか。
「……なんだか、苦しいような気がしてきた」
彼女にされるがままに触られている七海は、ふらふらとしゃがみこみ、頭を抱えたみせた。それを見た彼女は慌てふためき、おろおろしながら早口で喋り始める。
「えぇ~⁉ やっぱりさっきの蛸はビーチでモテなかった人たちの負の感情から生まれたいやらしい呪霊だったんだ! あの触手とヌルヌル媚薬で変になった七海に無理矢理エッチなことさられちゃうんだ……! つかまったら最後、完堕ちするまでイカされて、もう普通のカラダには戻れなくなるんだ……! 部屋に戻ったら私、いったいどうなっちゃうのぉ……⁉」
早口で一気に捲し立てる彼女に七海は呆気に取られていた。一体全体、何が起こったというのか。無理矢理? 完堕ち? わけがわからない。ただなぜか、頬を染めてキャアキャア騒いでいる彼女が、嫌がっているようにはとても見えない。それどころか、七海の様子をチラチラ伺いながら瞳を輝かせてさえいる。
「冗談です。本当に何ともない。いったいどこでそんなわけのわからない知識を得てくるんだ……」
「え、そうなの……? 七海が変になっちゃったのかと思って、少しびっくりしただけ」
彼女は肩の力を抜いて、安心したような、少し残念そうな、複雑な表情をしてみせた。やはりいつもと様子が違う。どうも何かを望んでいるような、そんな気がしてならない。彼女の肩を抱き、耳元へ唇を寄せる。普段は付けない煌びやかなイヤリングがくるくると揺れた。耳輪に触れそうで触れない七海の唇をすぐそこに感じ、彼女は全身がじりじりと焼かれるような感覚を覚え、身震いする。
「まずは海水浴を楽しみましょう。……夜は、アナタの期待通りに」
「もう、七海のエッチ!」
頬を染め冗談めかしながら目を細めて笑う彼女を横目に、七海はわざとらしく大きなため息をついてみせた。
海水浴デートは始まったばかり。久方ぶりの逢瀬を朝から晩まで堪能しようと、七海の脳内は忙しなく回転するのだった。