逢いたい見たさは恋のとが





 

いただいた林檎がとても美味しそうな匂いをしていたから、あの人に食べて欲しいと思った。





「……っ!」

 指先に鋭い痛みが走り、真っ赤な血がじわりと滲む。真っ直ぐな切り傷から溢れた血液が玉のように膨らみ、ついには連なって指を伝い流れ落ちる。せっかくの林檎が汚れてしまうと慌てて手を離したら、結局流しに落としてしまった。しかも血は止まらず林檎を赤く染めてしまい、これじゃあもう食べてもらえない。傷の下のほうをぐっと押さえるとさらに血が湧いて出てきた。そんなに深く切れたかなと少し冷静になってくると、ジンジンと鈍い痛みを自覚しはじめて怖くなってくる。

 本当に、何をやってもうまくいかない。この恋と同じだ。

 指をハンカチで押さえながら長い廊下を歩く。今日はやけに静かだった。本堂と離れているから読経も聞こえず、風に吹かれた葉がさわさわと囁くだけだ。世間から隔絶されたここで、あの人は毎日何を想うのだろう。

「血の匂いがすると思ったら、お前か」
「……包丁で切ってしまったんです」

 廊下の角から座村さんの声が聞こえて、思わずびくりと肩を震わせてしまう。怪我が見つかったこともそうだけれど、座村さんのことを考えていたこともあって、一人で勝手に気まずい思いをしている。そんな私に構うことなくこちらに近づいてきたから、思わず手を引っ込めた。隠しても意味が無いのは知っている。彼に隠しごとはできない。鼻が利くせいで毎度、こんなことになる。視覚を捨てた彼の脳内にはこの景色も、傷の場所も、私の赤面も写っていない。それなのに目の前の男は心配そうに眉を下げ、私の顔を覗き込むようにしてこちらを向くのだ。だからなにもかも全部が見透かされているようで、少し怖い。

「痛そうだな」
「いえ、大したこと無いです」
「見せてみろ」
「大丈夫です」
「いいから手ェかせ、ほら」
「いっ、ぃたッ……」

 するりと私の後ろに回って手を取り、指先でなぞるように患部に触れられ思わず声が漏れた。痛みのせいで反射的に手を引いたら、座村さんは悲しそうな顔をして「悪い」と言った。この短い間でも塞がろうと細胞同士がくっついていたらしく、再び傷口がぱっくりと開いてしまった。途端にボタボタと流れ落ちる血液が美しく清掃された塵ひとつない廊下を汚していく様をみて、罪悪感を抱く。何から何まで始末が悪い。こんな私のとるに足らない怪我のせいで座村さんの心を煩わせてしまった。

 再び座村さんの手が私の傷に触れてくる。端から端まで指の腹を沿わせ、小さな溜息を吐いた。

「深いな。ちゃんと洗ったか」
「えっと、まだです」

 こっちだと言われて手を引かれ、よくわからないまま座村さんの後を追う。視えない彼に先導されているなんて不条理だと思うが、手は離してくれそうにない。一人で歩けると言ったけれど、フフフと笑って誤魔化されてしまった。ハンカチ越しに繋がれた手は熱をもち、開いた傷口はドクドクと拍動しているみたいに疼く。誰にも見つからなくてよかった。今の私は、とんでもなく情けない顔をしているから。

「すみません」
「謝るこたァねえよ」
「林檎、切ろうとしてて、こんなことに。座村さんにも迷惑かけて、私――」
「お互い様だっていつも言ってンだろが」

 たっぷりの水で洗い流したあと、座村さんは長いこと私の手を握っていた。傷口を圧迫して血を止めないといけないらしい。心臓が大きく早く脈打つのを自覚しながら、為す術もなく俯いている。そんなことされたら血は止まるどころか溢れそうになるってことをわかって欲しい。化膿止めの塗り薬をたっぷりつけた清潔なガーゼでぐるぐる巻きにされた指越しに、座村さんの顔を盗み見る。彼の瞳に私は映らないけれど、なにもかも見えているんだと思う。

「あとで林檎持ってきてくれるんだろ」
「血がついたし、流しに落として汚れたので、捨ててしまいました」
「じゃあ話し相手になってくれたらそれでいい。待ってるからな」

 ひらひらと後ろ手を振り、去っていく背中に愛の言葉を投げてもいいだろうか。私の気持ちにも気付いているんだろう。彼の態度から想いを告げさせてはくれない距離感はあるけれど、想うことは許してくれているとわかり、安堵するとともに寂しくもある。

 林檎はもう一つあるけれど、この手ではどうしようもないから、話し相手ついでに座村さんに剝いて貰おうと思う。