世はバレンタインデーで浮かれきっている。ここ神奈備も例外ではない。ただ近年のバレンタインは恋人たちのイベントというよりも、チョコレート好きの祭典と化している。神奈備女子もみなこぞって百貨店のパンフレットを手に入れ、今日もスキマ時間にチョコレート狩りに余念がない。日々賑々しくワーキャー騒ぐ女子たちを後目に、神奈備男子たちはソワソワしていた。
二月十四日。基地内はなぜか珍しく人員が多く、女子はチョコレートの交換会、男子はそのおこぼれにあずかっていた。もはやバレンタインは告白のための一大イベントではなく、合法的にチョコレートを貪るための日として機能している。各々の思惑はあれど、皆それなりにイベントを楽しんでいた。
昼休憩も終盤に差し掛かり、ここ休憩室には入れ代わり立ち代わり出入りがある。今日の柴登吾はというと、既にいくつかのチョコレートを得ていた。その中に本気の告白も含まれていたが、意中の相手でなければ貰っても仕方がない。何度断っても無理矢理押し付けられたそれをどうしようかと悩みつつ煙草をふかしていると、唐突に一人の女がスタスタと近づいてきた。手には何か袋を持っていて、顔は真剣そのものだ。心なしか頬は朱に染まり、瞳は煌めいている、ような気がする。惚れた相手なので、そう見えるだけかもしれないが。
「ねえ柴、ちょっといい?」
「ええよ‼」
「……え、なにその元気な返事。いやあの、聞きたいことが――」
「なんでしょう!?」
言い終わる前に席を立つ柴を訝し気に見つめながら、女は半歩後ずさりをした。普段から割とやかましい男ではあるが、妙にキビキビした動きといい、キリッと凛々しい顔といい、いつもより三割増しで胡散臭い。どうせ男どもとやましい話でもしていたのだろう。
ギャラリーは知らんぷりをしながらも、各々の耳は確実に二人のほうへと向いている。
「ここでは、ちょっと……」
「ほなどっか静かなとこ行こ! 今すぐに!」
「言い方。すぐ済むし外出てくれるだけでいいよ」
女が廊下へと続く扉を顎でしゃくると、柴は光の速さで出ていってしまった。一人ぽつんと残された女には困惑の表情が浮かぶ。柴の様子がおかしいのはいつものことで、もはや突っ込む気にもなれない。まあ、変な奴だと思いつつも、なぜか憎めないでいる。彼の周りにいつも誰かがいるのは、人当たりと面倒見の良さがあるからだろう。ちゃらんぽらんに見えてもやることはきっちりとやるところは好感が持てるし、感情の機微に気付く繊細さには何度も助けられてきた。だから、柴は変わっているけど、悪い奴ではないと評価している。ただ最近は、それだけではないように思う。彼にだけ特別に反応する感情があるということに、目を瞑れなくなってきているから、困っている。
女がふう、とため息を吐き、柴の後を追う。二人を生温かく見守る者たちは、緊張した面持ちでごくりと生唾を呑む。柴の片恋を知る者は恋の成就を祈り、静かに目を瞑った。
廊下をしばらく歩いた階段の横で、柴は女が来るのを待っていた。ざわつく休憩室とは違い、ここまでくると静かで人の往来も少ない。こういうイベント事でもなければ、普段は同僚というだけで特別に仲良しというわけでは無い。そんな相手と二人きりで話す機会なんて滅多にあるはずもなく、虚しく散っていくだけだと思っていたのに、なんだか期待を持ってしまう。
少し遅れて女が到着し「ごめん、ごめん」と言いながら、手をひらひらさせた。表情の硬さから少し緊張している様子が伺え、なんでもない話かもしれないのに、期待が膨らんでいく。片手には何か荷物が持たれており、その中身が非常に気になるところだ。女が口を開こうとした瞬間、重ねるように柴が言う。
「ほんで、聞きたいことって……?」
女が真面目な顔をして、頷く。荷物の中を漁り、茶封筒を取りだす。そこから更に紙束を取りだし、書かれた内容に目を落とす。いや待てこの流れ。何かがおかしい。
「二日前に路面電車内で起きた爆発事故って結局、妖術師が関わって――」
「仕事の話かい!」
過去一番派手にズッコケた柴は、勢い余って壁に頭をぶつけてしまった。頭を抱えうずくまる男を見て、女は目を丸くした。テレビや漫画でしか見たことがない見事なズッコケ芸を目の当たりにして、感心してしまう。流れるようにヨロヨロと体勢を立て直し、「アイタタタ」と言いながらわざとらしく後頭部をさする様さえ伝統芸そのものである。
それはそうと、人の話を聞くなり突然激しく転ばれても対応に困る。一体全体、何が間違っていたというのだろう。
「はぁ? 当たり前でしょ」
「二人きりになる必要ある⁉」
「だってあそこうるさくて集中できないんだもん」
やれやれと肩をすくめる女を見て、柴は盛大なため息を吐いた。確かにあの場はやかましい。けれどわざわざ呼び出しておいて、ビジネストークを始めるだなんてどうかしている。それも妙齢の男女が二人きり。さらに言うなら、今日はバレンタインデーだ。本気の本命チョコと共に、熱い愛の告白があってもおかしくない。そんなシチュエーションで、期待するなという方がおかしい。
「なんやねん‼ 期待して損したわ」
「……ふーん。なに期待してたの?」
柴ががっくりと肩をすくめて項垂れていると、女がニヤニヤしながら顔を覗き込んできた。今にも吹き出して笑いそうな表情に腹が立つ以外の感想が出てこない。これが薊なら迷わずグーパンを繰り出すところだが、惚れた相手ではそうもいかない。柴登吾という男は、純情な恋心をいいように弄ばれて、黙っていられる人間じゃない。
「チョコレート貰われへんねやったら、イタズラするしかないね」
「それってさあ、ハロウィンじゃない?」
女がくすくすと楽しそうに笑った。確信犯的な笑みがこぼれる様子から、勝ち筋が見えてくる。お互い大人で、打算的すぎる。けれどそれが楽しくもあった。
チョコレートの甘い匂いがほんのりと漂っている。早くそれを寄こせと奪ってやろうかと思いながらも、柴はたったの一歩、女に近づくだけに止めた。逃げようにも追い詰められた女は、壁を背にして焦るふりをした。もう一歩近づくと、女は首を傾げた。
お菓子か、悪戯か。チョコレートか、口付けか。選択の間もなく、ぴたりと柔らかい唇同士が触れ合う。
二月十四日。今日は誰もが浮かれていい。お菓子の祭典には違いない。