久しぶりに地元の駅に降り立った奈ツ基は、あまりの静けさに驚いていた。まだ二十一時前だというのに、人っ子一人いやしない。戦争が終わり平和が戻ったせいだろうとも考えたが、ここは東京に比べてあまりにも何も無かったことを思い出す。三分遅れの街頭時計は変わらずきっちり遅れていて、戦後目まぐるしく変わる時代の波から取り残されているみたいに思えた。
少し歩いたところにある商店の店先にたむろする不良たちは見ない顔だった。こちらを睨みつけてくるくせに、一瞥くれてやるだけで大人しくなる。見掛け倒しの輩にかける時間はないと先を急ぐ。
広すぎる間隔で配置された薄暗い電灯には羽虫が群がり、少々薄気味悪い。地元はこんなにも寂れた街だっただろうか――。
「久しぶり」
ひと際暗い街灯の下に佇む女が居た。それが亡霊でなければ、奈ツ基のよく知る相手だった。昔から彼を目の敵にしていた女。富裕層しか入れない女子高に通っているくせに、何かと突っかかってきては勝手に怒っている。別に親同士に関わりがあったわけでもなく、親戚であるとか、そういった繋がりは断じてない。それなのにこの女は、不良たちにやたらと絡んでいたのだった。とりわけ奈ツ基は目の敵にされていて、タバコや酒、二人乗りの度に追いかけ回されていた。金持ちの道楽か、見当違いの慈善活動か。お嬢様のくせに不良と関わろうとするなんて、頭がどうかしていることだけは間違いない。どこか風変わりな女。そういう奴だった。
「……何してんだ、こんな時間に」
「戻ったって聞いたから、労いに。お疲れさま」
「頼んでねェ」
さも当たり前みたいに出迎えられ、奈ツ基はすぐに反応できずにいた。相変わらず涼しい顔をしていて、いけ好かない奴だと思う。真っ直ぐに向けられた視線を避けるように目を伏せてしまい、なんだか押し負けたような気がした。このまま通り過ぎてやろうと女の脇を抜ける。
すれ違ったとき、女が奈ツ基の手を取った。冷たい手だった。今日は少し冷えるから、そのせいだと思った。
「また東京に戻るんでしょう」
「なんでオマエが知ってんだよ。関係ねえだろ」
振り返り、視線で刺す。大抵の小者はこれで逃げていくが、この女はいつだって真っすぐ見つめ返してくる。嘘偽りや疑いを知らない純粋無垢な育ち特有の自信を滲ませた無鉄砲さに心底腹が立つ。こいつは何も知らない。血の匂いも。泥の味も。血の通わない人の温度も。何もかも味わったことがない。
「関係あるよ」
人の話を全く聞いていないところも変わらず、自分の言いたいことだけ言う。関係あるわけないだろう。自分のしたいことだけして、自己陶酔しているだけだ。奈ツ基は女の手を振り払い、背を向けた。性懲りもなく、女は奈ツ基の手を掴む。
「好きだったから、寂しい」
ひやりと冷たい空気がさらに凍てつく。震える指先は氷のように冷たいのに、触れられた場所が徐々に熱を持っていった。
「これ、あげる」
奈ツ基が答える前に、手のひらに何かを押し込められた。一瞬鋭くなる目つきをものともせず、女は奈ツ基の手を包み込むようにして、それを握らせた。指で弄ぶと柔らかい肌触りで、丸くて、紐が付いていることがわかった。女の手を払いのけるようにして振りほどき、無理矢理持たされたモノを見る。青白いフェルトに黄色い糸で無病息災と刺繍されていた。
「なんだこれ。……下手くそだな」
「お守り。これ見て私のこと思い出してよ」
文字はところどころはみ出し、歪んでいた。誰がどう見ても手作りとわかるそれを訝しげに眺めながら、奈ツ基はふん、と小さく鼻を鳴らした。女はこの反応がまんざらでもない証だと知っていた。
嫌だとも良いとも言わずはっきりしない様子の奈ツ基に遠慮することなく、女は腰に携えた刀の鞘に結び付けた。鋭い日本刀に括りつけられた、手作りのお守り。人を斬る刀に命を守る護符など不釣り合いなはずなのに、妙にしっくりくるから気色悪い。
「バカか! どこに着けてんだ!」
「やっぱり邪魔かな。大きすぎたかも」
ブラブラと揺れて存在を主張しているお守りを眺め、女がぽつりと呟く。指先でフレームを作り、枠内を覗き込む。奈ツ基の愛刀に似つかわしくないと思えばそう見えるし、ふさわしいと思えばピッタリと合っているようにも見えた。要は、心の持ちようでどうにでもなる。奇しくも二人は同じ結論に辿り着いていた。
「んなモンなくても思い出せるが、一応、貰っといてやる」
「……ナツくん、なんか丸くなったね?」
女は奈ツ基の予想外の反応に目を皿のようにしていた。パチ、とひとつ瞬きをして、フェルトと奈ツ基を交互に見る。嫌そうな顔はいつものことだが、それなら捨ててしまえばいい。いつもなら引きちぎって捨てているはずだ。でも、そうではないということは、一定受け入れられたのだと女は自分に都合よく解釈し、満足げに微笑んだ。
「さっき、好きだったって言ったか」
「ええ、言いましたとも。巳坂奈ツ基が好きでした。ナツくんがいないと、寂しい」
ここまできたらもう、何も怖いものは無かった。諦めて封印していた気持ちを解放し、自分勝手に好意を告げる。返事を求めているのではなく、己が解放されたいための発散。この告白は、まさにそういった意味しかなかった。
しかし奈ツ基は難しい顔をして、刀に似つかわしくないフワフワを弄りながら女をねめつける。
「……今はどうなんだよ」
夜風が二人の間を通り抜け、街灯の光がわずかに揺れる。言葉は風に紛れ、聞こえなかったかもしれないと奈ツ基は思った。それでも女は、確かにその意味を汲み取っていた。
「昔のことみたいに言ってただろうが」
「今も好きだよ。これからも、ずっと好きでいる」
「……また帰ってくる。そのときまで待ってろ」
そう言うと奈ツ基は、すれ違いざまに女の頭に大きな手を乗せた。艶やかな髪をつるりと滑り、女の手の甲をなぞった。そのまま指を絡ませ、手を繋ぐ。心臓がうるさく騒いでいる。女一人で夜道は危ないと言い、手を引き歩く。
はっきりと聞こえた「待ってろ」という言葉を女は脳内で何度も反芻しながら、導かれるまま進んでいく。行きつく先がどこであれ、この選択に間違いはない。不思議とそんな、確信があった。