墓場まで着いて逝ってやる





 午前三時を回ったところ。いつもなら玄関から堂々と入ってくるはずの男が、今日は珍しく扉を開けず、音もなくすり抜けてきた。しょーもないことに妖術を使うなと何度も言っているのに、やましいことがある時はいつもこうやって、こっそり静かに帰ってくる。今日も私に堂々と言えないことをしてきたんだろうと思うと、心底呆れ返るし、悲しい気持ちになる。

 居間の扉を開けた登吾が、電気も点けず座っている私を見るなりびくりと身体を震わせた。小声で「おどかすなや」と言っているが、別に驚かせようとしていたわけじゃない。いつ帰ってくるかもわからない恋人を寝ずに待っていただけだ。なんて献身的なんだろうと、感動されてもおかしくない。若干気まずそうに唇を尖らせながら、風呂場へと逃げる登吾の背中に向かって言う。

「これ、なに」

 私は一枚の紙きれを持っている。高級感のある黒い紙にゴールドの箔押しが美しい。女性の名前と店名らしきものが書かれていて、誰が見てもそれが何なのかは明白だ。柴登吾の逃げ場はない。それなのに、目の前の男は白々しい顔をしてみせる。

「それは名刺や」

 そんなことはわかっていると、全人類がツッコミを入れるだろう。けれど私は違う。幾度となくこの男と対峙してきた。相手のペースにのまれてズッコケ芸でもかまそうものなら、ヤツの思い通りだ。ここは冷静に、淡々と事を運ぶべきところである。

「どこの誰?」
「俺かて行きたなかってん。そんなとこ」
「どんなとこ?」
「無理矢理連れていかれたんや」
「真面目に答えなさいよ」
「ごめんなさい」

 帰ってきた返答は何一つ答えになっていない。シュンとうな垂れて反省の色を示しているが、心の中で――はよ終わらんかなぁ――と考えていることは明白である。そもそも一体、何に対しての謝罪なのかわからない。こうやって適当にあしらっておけば、面倒になった私が言及するのをやめるとわかっているのだ。私はこの男に惚れているが、彼の全てを許すほど盲目的になっているわけではない。けれど最近では、他の女に目移りしても、何かよからぬ動きをしていても、たまに会ってくれたらもうそれでいいと思えてきた。こんな虚しい気持ちを抱くほどになってしまっている。全部、あの男が悪い。もういっそ来ないで欲しい。嘘。それでも会いたい。なんでこんな男を好きになってしまったんだろう。

「お風呂入ってきて」
「えー、かわい〜。焼きもち妬いてくれてんの?」
「違うわアホ。知らない女の体液付いてたら気持ち悪いから洗ってこいって言ってんの」
「体液付くようなことしてへんのに」
「じゃあ何してたの?」
「煙草吸いながら座ってただけ〜」

 なんて不毛なやりとりなんだろう。へらへらしながら再び風呂場へ向かう登吾の背中を睨みつけてやろうと思ったのに、そんな気力はもう残っていなかった。結局、彼にとっての私は、家と身体が好きなときに使えるという利用価値だけなんだろう。幾度となく同じようなやりとりを繰り返してきた。今日も呆れて私が折れたらそれでいいはずだ。でも、今日は涙が溢れて止まらない。足元もおぼつかなくなって、崩れるようにその場に倒れる。もうどうにでもなってしまいたかった。こんなことで泣くなんて馬鹿みたいだと思う。原因はわかっている。昨日出席した、友人の結婚式のせいだ。未来に向かって幸せそうに微笑む新郎新婦を見て、私と登吾には絶対に無い未来だとわかってしまった。幸せになりたいと願うのは罪ではない。誰かとじゃなく、貴方と一緒に歩みたい。口に出しても相手にされないから飲み込んだら、涙に代謝されて目から次々と流れ落ちてくる。このまま私から出て行ってよ。もう二度と彼のことを考えられないよう、全部忘れてしまいたい。

 ベッドに潜って夜が明けるのを待つ。布団に包まって蛹みたいになっている。朝が来たら新しい自分に生まれ変わるんだ。決意を新たにしたら涙は止まった。これでもうあの男のことを考えずに済む。

「ごめんて」
「来ないで」
「そんな怒らんと機嫌なおし〜」

 シャワーを浴びた登吾がさも当たり前のように布団に入ってくる。いつもなら追い出そうというパフォーマンスのあと、なし崩し的に求められ、それに応えてしまっていた。最中から彼が帰るまではずっと甘やかされ、何に腹が立っていたのかどうでもよくなってしまう。その繰り返しだった。いつか来るその日まで、待っていてくれと言われたら待つ覚悟はあった。でもね。もう疲れたよ。

「怒ってない。虚しいだけ」
「もう不安にさせるようなことせえへんよ」
「貴方と私は対等じゃないんだって悲しくなる。相手にされてないみたいで辛い」

 めんどくさいなって思ってるんでしょう。本当は心の機微に聡いから、こうやって私を心配するふりだってできる。だからもう、見放してくれていいよ。休憩場所も提供できない、身体も使えないってなると、あなたにとって私は無価値だから。

「ごめんな」
「……やっぱり何も教えてくれないんだ」
「ちゃんと好きやで」
「そうやってまた誤魔化す」

 私の拒絶を受けて、ベッドの端っこに腰掛けているらしい登吾が弱々しい声を出す。これも演技だってわかってる。いつもみたいに適当にあしらって、私の御機嫌取りでもすればいい。それさえ無くなったらもう、私たちは本当に終わり。

 しばらく沈黙が続く。どんな顔をしているのか気になって、こっそり彼を盗み見る。初めて見る穏やかな表情でこちらを向いていた。

「絶対帰ってくるから、待ってて」
「……うん。ずっと、待ってる」

 たった一言で決意が揺らぎ、次の瞬間には崩れ落ちた。ずるい男だ。私だって大人しく待ってるだけじゃないよ。墓場まで着いて行ってやるからね。