「あー、もうッ! 最ッ悪!」
「こっちの台詞や」
ドカッと大きな音が四畳半に響く。仮にも妖術師の女が力いっぱい殴ってもびくともしない結界に守られているこの空間は、交合しないと出られない部屋らしい。嘘か誠か知らないが、端っこに寄せられた古く丸い食卓に置かれた紙にそう書いてある。こういった条件付きの閉鎖空間を作り出す妖術は珍しいと考察しつつも、女は怒り交じりの虚無感でいっぱいになっていた。
なぜ自分が。
よりによって、相手が柴登吾なのだ、と――。
***
片田舎の大したことなさそうな案件を命ぜられたときから、なんだか嫌な予感がしていた。気乗りしないが上からの命令に背くわけにもいかず、仕方なく調査のために訪れた大きな屋敷のとある空間に一歩足を踏み入れたら、何の前触れもなく妖術による閉鎖空間に幽閉されてしまった。ぼろぼろの土壁と切れかかった蛍光灯の照明がもの悲しく、擦り切れた畳が痛ましい。部屋の中央にはご丁寧にも布団が敷かれてあり、なぜかそれだけは新品同様美しく、ぴかぴかと綺麗なのが余計に気味が悪い。加えて性行為をしないと出られないときたものだから、気色悪いを通り越して腹が立つ以外になんと言えよう。
二人して靴も脱がず玄関入ってすぐに立ち尽くして何分経っただろう。この間にも調査対象であるこの屋敷の主及び近親者は逃亡している可能性がある。
憤怒が肉体を昂らせ、焦燥が思考にノイズをかける。もはや二人とも正常な判断ができなくなっていた。
――早くなんとか切り抜けなくては。
「私の力じゃどうもならない。そっちでなんとかならないの」
「できたらとっくにやってるわ。諦めてそこはよ寝て」
押しても引いてもビクともしない空間にしびれを切らした女が、柴に強い口調で言う。返ってきた答えを聞いて、頭に血が上る。いかにも適当にあしらわれているように思えて、女の胸がざわめき軋む。冗談にしても笑えない。そこに寝たら、どうなるというのだ。
「絶ッ対に嫌ッ! なんでアンタなんかと⁉ せめて薊がよかった。まだ顔がタイプだし」
「アイツはああみえて性欲オバケやから部屋から出ても止まれへんと思うで」
「柴よりマシでしょ。最近毎週合コン行ってるの知ってるから。今何股掛けてるの? 女の敵。最低」
「待て待て。ゼロ股や。アレは人数合わせでホンマは嫌のに無理矢理行かされてるねんで。こっちは被害者や」
合コンの噂が本当だったことに女は密かに落胆した。呆れ顔でべらべらと喋る柴を横目に、ささくれの目立つ引き戸を抉じ開けようとしてみる。全くびくともしない様子に諦めそうになるが、一分たりともこの男に隙を見せたくない。ここでの言動が、今後の二人の関係に大きな影響を与えそうな気がしてならない。後腐れなくセックスできる相手であれば、どれだけよかったことだろう。お互いに好意を持ちつつもそれをおくびにも出さず、今の今まで隠し通してきた意味を失ってしまいそうな妖術――それも二流三流の相手だ――に吐き気を催しつつも、ここで何か変わるかもしれないという朧げな期待を持ってしまっている己が憎い。
柴は女のあまりにも嫌そうな様子からどう考えても脈ナシだとわかってしまい、とても虚しい気持ちになった。どうでもいい相手には優しくしたりお世辞を言ったりできるのに、好きな人を目の前にしたら何でもないふりをしてしまう。好意を気取られたくないせいだとはわかってはいるが、これでは真意など伝わるわけがない。チャンスとばかりに甘い言葉を囁きその気にさせることができたなら、今日から何かが変わるのだろうか。
「どうでもいいわそんな情報。早くいつもみたいに瞬間移動しなさいよ」
「そういうことできんように作られた空間やねんから、条件満たさんと無理やって」
「その条件が最低最悪だから困ってるんでしょ」
女がハァ、とわざとらしく大きな溜息を吐いて見せる。交合の定義とはなんだろう。挿入して射精することが交合なのだとすれば、それだけを素早く終わらせてこの結界を脱出したとして、後に残るやるせなさの面倒はいったい誰が見てくれるというのだ。女は大きな溜息を吐いて、頭を抱えた。未だ玄関先でもたつく二人を見て、この馬鹿げた結界の術者は何を想うのだろう。
「ちゃんと気持ちよくするやん」
柴が靴を脱ぎ、丁寧に揃えながら言う。一歩部屋に足を踏み入れると、摩耗した畳はじっとりと湿気を含んでいて、陰気な四畳半を更に湿っぽくさせていた。屈んだ姿勢を正し、女のほうを向く。どういう顔をしているのか見たくないと思いながらも、確認せずにはいられなかった。
「そういう問題じゃない‼ よくそんなこと平気で言えるわ!」
柴と視線が合う前に女が叫ぶように言った。充血した目にはうっすらと涙を浮かべ、拳を震わせている。柴は女が怒るのも無理はないと思いながらも、その感情の出処について考えていた。心底嫌がられているのか。わずかでも好意があるからこその拒否反応なのか。
あわよくばという気持ちがゼロではない。ただ合意があったとしても、ここで性行為を行ってしまったら、これからの二人はどうなるのだろう。お互いにいい歳をした大人であるし、道端の小石にでも躓いたくらいの感覚でやりすごすことができればいいのだが。
「親切心からや。オンナノコは負担が大きいやろ」
「負担になるほどのモノでもないでしょ。偉そうに」
「神奈備一と名高い俺に向かってどの口が言うてんの」
「この口ですゥ。大したことない奴ほどよく吼えるよね~。かっこわるぅ」
「大したこと無いかどうか試してみる?」
「あのさァ、この程度の作戦にのる馬鹿なんているわけないでしょ。さっさとここから出せ、馬鹿」
いつものような軽口の応酬になり、柴は安堵した。それに女も靴を脱ぎ、部屋の中に入ってきた。もしも本当に嫌だと思われていたとしたならば、もっと明確な拒絶があっても不思議ではない。だからこれは、合意のサインだと思った。
「もうええからさっさとヤるで」
「え、嫌! ほんとにやだッ! 離してっ!」
柴が女の腕を掴む。女が即座に腕を振り払う。予想外の明確な拒否を示され、柴は眉間に皺を寄せてしまった。部屋に入ったのだからもう、やるしかないのに。
モタつく二人をけん制するかの如く、壁に掛けられた振り子時計がボーンと音を立て、時の経過を知らしめてきた。こんなところでモタついていては、後の仕事に差し支えるぞと言わんばかりに低い音を響かせ、決断を迫る。
「そこまで拒絶されたらさすがに傷つくねんけど」
「柴はいいの。こんな下らない妖術で無理矢理変なことさせられても」
「ラッキースケベ的に喜ぶ俺と、正規の手順で結ばれたい俺が脳内バトルしてるとこや」
振り払われた手をわざとらしく撫で擦り、恨みがましい眼差しで女を見つめながら柴が言う。不本意であると感じる部分もあれば、ここでこの関係を変えたいと変化を望む自分も居る。そのせめぎ合いで揺れながらも、結局、やることをやらねば脱出はできないと割り切っている。結果はもう決まっているのだから、その過程が大切なのだ。
「……正規の手順って何」
「好きです付き合ってくださいって言うこと」
「嘘じゃないよね?」
「正直者やから嘘なんて吐けへん」
しおれた草のように疲れ切った様子の柴が投げやりに言うと、女はわざとらしく大きな溜息を吐いて見せた。なぜか薄ら笑いを浮かべていて、気味が悪い。
「なんでこんな奴って、未だに腑に落ちないけど、私も柴に恋愛感情があるんだよね」
「ほんま?」
「こんな部屋のせいで最悪の告白になっちゃった」
好きです付き合ってくださいと素直に言えればよかったが、結局このような形になってしまった。柴は釈然としない思いを抱えながらも、漏れ出るしたり顔を隠せずニヤついていた。その様子を見て女は、言わなければよかったかもしれない、と少しだけ後悔した。
長く時が過ぎたように感じたが、十分程度しか経っていない。これから二人はここで交合するが、合意の上だ。ここを脱出したら改めて好きだと素直に伝えたいと思いながら、女は上衣をするすると落とした。
***
「ちょ、待って。めちゃくちゃ緊張してきた」
均等に綿が打たれたフカフカの布団に鎮座する二人。どちらも俯き加減で赤面している。いざ〝やります〟と始めるパターンの経験がなく、困惑している。柴は手のひらに人という字を十文字くらい書いて飲み込んだ。
「お、おねがいします……」
「とりあえず差し迫った危機を回避するために今からやらしいことしますけども、本来はこういう形は望んでなくて、現状を打破する方法がこれしかないから致し方なく――」
「もうわかったから、早くして」
おまじないの効果は乏しいようで、動揺した柴が早口で捲し立てた。女は既に下着一枚になっており、この先の覚悟はできているようだ。柴が恐る恐る女の手を取った。肌寒いのか、肩は震えて指先は冷たい。不安や期待が入り混じり、制御できない感情が全身を駆け巡って息ができない。行き場の無い感情にまみれて溺れているみたいに苦しいのに、こんな状況でも想いが通じて報われた気持ちになるから、恋愛感情というものは質が悪い。
「ぅ、はい、せやね……。いくで」
「敵襲に備えて手短にお願いします」
ニコリとほほ笑む女が事務的に答える。何とも思っていなさそうな態度に、少し腹が立つ。けれど女の覚悟は知っている。柴だって、生半可な気持ちでは無い。
「あとでちゃんと、やり直しさせてな」
「うん。ちゃんと気持ちよくしてね」