ひと気のない路地裏。縄でぐるぐる巻きになっているヤクザから、いざお話を伺おうかという、まさにそのとき。柴の携帯から愉快な着信音が響く。この着メロは、家族からの連絡だ。折り畳み式の携帯を片手で勢いよくパカッとあけると、画面には長男の名前が表示されていた。何度も修羅場を越えてきたが、家族からの知らせほど心臓に響くものはない。
――いよいよか。
迷わず通話ボタンを押す。一言二言交わし、ズボンのポケットから懐紙を取りだした。薄墨の筆ペンでさらさらと文字や記号を記し、書き上がった札をヤクザの額に貼り付けた。
「悪いな。急用や。俺が戻るまで大人しいしとけよ」
ポカンと口を開けて間抜け面を晒すヤクザを路地のはしっこへ足蹴にして転がす。何か言いたげに目玉だけギョロギョロと動かしているが、今かまっている時間はない。父として。夫として。一刻も早く帰宅し、やらなければならないことがあるからだ。
***
一方、そのころの柴家では。ソファに突っ伏して呻く柴登吾の妻と、たまたま授業もバイトも無い長男が居た。次男以下はそれぞれ学校へ行っている。
「ただいまァ! 準備できてるか⁉ すぐ飛ぶで!」
家の玄関を無視して、土足のまま父が帰宅した。普段子ども達には【無駄に妖術、使うべからず】の教育をしているが、自分は好き勝手に使っている。そんな父を冷ややかな目で見ながら、長男は入院セットが入ったボストンバッグを手渡した。
「よし、荷物持ったぞ。あとは忘れもん無いか」
身重の妻のお腹の中には、柴家の七人目の子がいる。待望の女の子で、家族全員が浮足立っていた。家族一ソワソワしている父を尻目に、長男は呻く母を心配そうに見つめた。男には想像さえできない痛みを抱え、顔を真っ赤にしてうずくまっている。
「うーっ……! 何人産んでもこの痛み、耐えかねる……!」
「ほな、チビら頼むで!」
「チビらって。もう一番下一年生やからほっといても大丈夫や」
「アホか! そんなん言うて、こないだ壁ボロボロなっとったやろ! 家の中で妖術使うな言うてんのに――」
「はやく……! もう、産まれる……!」
再び大きなうねりが妻に訪れる。これ以上我慢できそうにないだろう。縋るように柴のシャツを掴み、震える妻の腰をさすってやる。
さて、準備万端。病院に着きさえすれば、もう安心だ。柴は長男に目配せをした。コクリと頷く長男を頼もしく思う。
「今日も明日も明後日もカレーや。せやから米だけ炊いといてくれ」
「わかってるって。母さん辛そうやから早よ行ったって」
見かねて父に言うと、はっとした表情を作って妻を抱き寄せた。この世の何よりも早く産婦人科へ直行できる己の力に、これほど感謝した日はない。長男がもう一度「早く」と促すと、二人はすぐに音もなく消えた。
一人残された家は、しんと静まり返っていた。六人兄弟の長男として十八年間過ごしてきて、初めての妹だ。誰にも明かしていないが、実は新しい家族が増えることを誰よりも楽しみにしている。今日は何もない一日だからゆっくり好きなことをして過ごそうと決めていたのに、どうも落ち着かない。そういえば、駅前のショッピングモールにベビー用品店があったはずだ。服やおもちゃは弟たちのお下がりがたくさんあるけれど、柴家初めての女の子に何か可愛いものをプレゼントしてあげたい。
よし、と立ち上がり、玄関を出た。妹は何が好きだろうか。
***
「おめでとうございます。可愛い女の子ですよ」
柴家の子を全員取り上げた助産師がニコニコ笑いながら言った。聞くところによると今年定年退職らしい。長男からお世話になり、個性豊かな柴家の六人兄弟全員を知っている。おそらく最後の子であろう長女の出産にも関わり、なにか運命めいたものを感じざるをえない。
「ようやった‼ ホンマに……! うぅ、涙で娘が見えへん……!」
「泣いてないで早く抱っこしてあげたら」
「……おんなのこ、や……!」
「お兄ちゃんたちより、小さく見えるね」
「ハァ……! かわいいなあ。はよ帰っといでや。兄ちゃんらいっぱいでやかましいけど、みんな楽しみに待ってるからな」
七人の子の中で一番小さく産まれた女の子を胸に抱きながら、柴はとめどなく溢れる涙を拭うことなく語りかけた。ぎゅっと握られたしわしわの手を撫でると、少し力がゆるみ、手のひらが開く。すきまにそっと人差し指を滑りこませると、柴の指をぐっと握って離さない。ふにゃふにゃで小さいのに、頼もしい限りだ。
***
「身体はどうや」
「だいぶ楽になった。さすがにこの歳で出産はしんどかったけど……」
産後の処置を終え、車椅子で運ばれていく妻が見えた。少し顔色が悪いように見え、咄嗟に呼び止めてしまった。予想外の七人目。長男とは十八歳離れているから二人ともそのぶん歳をとっているということだ。さすがに堪えただろう。
「お疲れさん。ほんまに、ありがとうな。入院中はゆっくり休んでくれ。帰ったらまた大変やからな」
「家は大丈夫そう?」
「ずんどう鍋に三日はもつ量のカレーあるし、全員張り切ってお世話する言うてるから大丈夫やで」
「ふふ。頼もしいね」
自分に言い聞かせるように言う夫の姿を見て、妻は口元を緩めた。子どもたちだけでめちゃくちゃになっていそうだが、彼らなら何とか乗り越えられるだろう。
よろめく妻を支えながら新生児室へと向かう。いつも産後はほとんど預けて授乳だけしていたが、今回は母子同室にするのだと言う。入院中に少しでも休めばよいのに、と言おうとしたとき。妻は嬉しそうに微笑みながら「最後の赤ちゃんと少しでも長く一緒にいたい」と言った。なんと幸せそうだろうとまた涙しそうになるのをグッとこらえて、柴はそっと寄り添った。
コットの中ですやすや眠る女の子を見つめていると、また涙が流れそうになる。
「ついに、女の子や……!」
「かわいいね。柴家の紅一点だ」
美しい髪色は父親似。少し気の強そうな口元は母親似。そんな話のなかで、ぽろりとこぼれた一言だった。
「何言うてんねん。君も女の子やろ」
「もう女の子って歳でもないでしょ」
「俺にとっては、君もいつまでも可愛いの」
柴の言いぶんに目を丸くする妻に向かって、当たりまえだと呆れた声をだす。
出会ったときから運命だった。これからもずっと、変わらず愛している。
「ほんまに、よう頑張ってくれたな。可愛い子どもら産んでくれてありがとう」
「六男一女の親、頑張らないとね」
静かな病室に穏やかな寝息だけがひびく。小さな頬を撫でるとうっすら目を開け、父を見た。またすぐ閉じたその瞳に、たくさん美しいものを見せてやりたい。