真っ白い天井を見つめてもう何日経っただろう。電気がついているから夜ではないという事はわかる。四人部屋の廊下側で外が見えないから、動けない私は誰か来た時にいつも聞くのだ。「今、何時です か」と。
時計を持ってきて欲しいと何度もお願いしたのに毎度忘れたと言うから、もういらないと断った。今日が何月何日何曜日かわからない。夫と子ども達が最後に面会へ来てくれたのはいつだろう。昨日だったか、ついさっきだったか、それとももう、二週間くらい会っていないかもしれない。一体私がこの病院に転院してきてからどれくらい経ち、時間はあとどれくらい残されているのか。誰か教えてちょうだい。聞こえないの。ここには誰もいないのかもしれない。
なんとなく、もうすぐ自分が死ぬというのはわかるものだ。もう十分生きたし、孫が出来ておばあちゃんにもなった。良い人生だっただろうかと振り返ってみるが、いつも思い出すのは一人の男が私の手を離しようとしない、若かりし頃の、あの光景ばかりだ。
そう。あれは私が二十代の頃――。
思い出に浸ろうとしたその時、若い女の声が聞こえた。誰か来たようだ。娘の声では無い。一体誰だろう。今更この私に何の用があるというのか。
「失礼します。お通じ出ていないか確認させてくださいね」
カーテンを開ける音と同時に布団を捲られ、一気にヒヤリと身体が冷える。私の身体はもうボロボロでほとんど自分では動かせない。やせ細ってみっともないが、完全に枯れるまで私にはあと少し時間が残されているらしい。若い女性の看護師だろうか。誰かに向かって「ここ一人でいけるから次行って」と言っている。ガリガリの老婆のおむつ交換は女性一人でもこなせるのだろう。確か隣のベッドには私と同じくあまり動くことはできないが恰幅の良い患者がいる。そちらは二人がかりでないと難しそうだ。てきぱきとズボンを脱がせておむつの中を確認する女性に向かって声をかけてみる。
「看護師さん。忙しいと思うけど、ちょっと聞いてくれる?」
白内障が進行して顔は良く見えないが口元が緩んだので笑っているようだ。この目ももう寿命なのだが、手術でレンズを入れれば再び視界がクリアになるらしい。しかしもうすぐ死ぬ老いぼれにこれ以上手間をかけさせるわけにはいかない。それにこの目が再び見えるようになったとしても、私が本当にまた見たいものは見られはしないのだから。合わぬ焦点に合わせようとしてくれてるのか、声の主は私の顔を覗き込んだ。声の感じからしてこの病棟の中でも若手だろう。
「私は看護師では無いですよ。ヘルパーです。どうされましたか」
「私ね、ずっと、ずっと忘れられない人がいるの」
「きっと素敵な思い出があるんでしょうね。何かあればナースコール押してくださいね。失礼します」
耳も遠くなってきているから彼女が言ったことのほとんどは聞こえなかった。それでも、話を聞いてくれると言った気がしたので遠慮なく思い出に浸らせてもらうことにする。
ありがとう聞いてくれるのね。
そう、あれは私が二十代の頃。実は私、ふふふ。こんな話、信じて貰えないと思うけれど、ちょっと特殊な仕事をしていてね。あなた幽霊とかそういうものは信じる人? 自分でもいかがわしい話だと思うけれど、そういったものを相手にしていて、ちょっと、いや、かなり危ない時もあったし、命の危険を感じることもあったのよ。まあ、あなたたちのお仕事もすごく大変でしょうけれど。
それでね。私、当時、同じ職場の人と交際していたんだけど、その人の事を今でも思い出すの。すごく格好良くて、どんな時でも私の事を優先してくれるし、本当に山ほど愛を与えてくれる人だった。彼は物静かであまり顔にも出ない方だったんだけど、私には微笑みかけたり、照れたり、みんなの前ではしないのに大きな口を開けて笑うこともあったのよ。ごめんなさいね。こんなおばあさんの、大昔の惚気話なんて聞きたくないかもしれないけど、もう先が短いから、どうしても誰かに自慢したくって。後にも先にも忘れられないのはあの人だけ。本当に素晴らしい人だった。
こんなによぼよぼになったっていうのに、その人の事ばかり思い出すのよ。何故でしょうね。自分でもおかしいと思うんだけど。ああ、夫や子ども達には内緒にしていてちょうだいね。あなたと私だけの秘密にしておいて。
そう。それで、彼とは仕事も一緒だったし、色んなところへ出かけて、美味しいものもたくさん食べたし、一緒に暮らして、本当に幸せだった。でもね、若い頃の私は欲張りだったから、それだけじゃ満足できなくなってしまったの。最後は酷い振り方で別れてそれっきり。今はどうしてるかしら。もう結婚して子どもがいるかも。そうであって欲しいとずっと願っているの。彼にも幸せを諦めて欲しくなかったから。あの人はね、いつだって自分よりも私や皆が平穏であることを望んでいる人だった。仕事のことでぶつくさ文句を言っているくせに、誰か困っている人がいたら放っておけなくって飛んで行っちゃう。無茶な仕事を振られても誰かに無理をさせるくらいなら自分が、って出て行っちゃうような人。でも、そんなところも大好きだったの。
***
七海とその恋人が二人で暮らす家は駅からほど近い都心のマンションだ。近隣には多数の商業施設があり、病院やクリニックも近く生活に不自由はない。元々一緒に住む予定は無かった二人だが仕事柄会う時間がなかなかとれず、耐えきれなくなった七海が同棲を持ちかけた。彼女はそんな七海に驚いたが彼と同じ気持ちだったので二人は生活を共にするようになった。同じ家に住むというのに仕事が忙しくすれ違うことも多々あったが、二人でいるときは穏やかな時間が流れた。
そこに住み始めて半年ほど経ったある日。日本海側のとある漁村へ長期出張へ行っていた彼女が戻るや否や、七海に話があると告げる。その様子にどうもいい話ではなさそうだと七海は思い背中がぞわぞわした。小耳に挟んだ程度で詳細は知らないが、彼女の今回の任務で一般人の死者が出たと聞く。それも子どもだったらしく、恐らく彼女はそのことで参っているのだろうと七海は考えた。靴さえ脱がず玄関で立ち尽くす切羽詰まった様子の彼女を静かに見つめる。身体に力が入り震えていた。顔色は悪く唇も真っ青だ。今にも倒れそうなその様子を見て七海は肩を抱こうと手を伸ばしたが、彼女の冷え切った手で払いのけられてしまった。そのまま彼女は鋭い目で睨みつけながら七海に別れようと告げる。当然そんな申し入れは納得できない七海は何とか説得を試みるも、彼女は硬く心を閉ざしてしまい入り込む余地は無かった。人死にが出るのはそう珍しいことではない。それでも被害者が子どもだったせいか、同行した補助監督がおらずすべての対応を彼女一人でこなしたせいか、彼女は頑なに七海に触れさせようとしなかった。一人にして欲しいと言うので、命を粗末にしない事だけは約束して欲しいと七海は言って彼女を自由にした。それが二人の最期だった。
それから彼女はすぐに辞表を出して一度も高専に行くこと無く離職票を郵送し呪術師を辞した。一応は引き止める素振りを見せた上層部も彼女の光を無くした瞳を見てすぐに諦めた。消耗品とでも思っているのかもしれない。大した力量もないし、誰も悲しまない。自分に言い聞かせるように呟きながら彼女はこの世界から文字通り消えた。しばらくして縁もゆかりもない土地へと流れ着き、名前を変えた。何もかも捨てて新しく生まれ変わりたかったのだろう。
七海にはどうしてこんなことになってしまったのかわからなかった。戻ってくるだろうと思っていたのに戻ってこなかった。悔やんでも悔やみきれず、時間を見つけては彼女の痕跡を探したが見つからない。せめて理由を知りたいと関係者に詰め寄ったが誰も何も知らないという。そうこうしているうちに彼は多くの呪術師と同じく若くして命を落とした。この業界での平均寿命を聞いてはいけない。
彼とはそうやって別れてそれっきり。私は変な仕事を辞めて全然関係ない会社に就職して、そこで知り合ったのが今の旦那。優しい人よ。お金にも困らなかった。子どもが二人できて孫もいる。ずっと変な業界にいたから一般の会社がどうなっているのかあまりよくわかってなかったんだけれど、なんてことはない。どこも一緒だなって思ったわ。だってそうでしょう。オバケを相手にするか、オバケみたいな人間を相手にするか。そう。どこで何をしていようが一緒だったのよ。あのままおかしな仕事を続けていても、私の思い描いた幸せはあったかもしれない。そうだとすると私はなんて自分勝手なんでしょう。今になって、彼とあのまま過ごしていたらまた違った幸せがあったのかもしれないって何度も考えてしまうの。それなのに、あの時、彼にとんでもなく酷い事言って傷つけてしまった。私が彼の家を飛び出した時、最後に手を掴まれて、離してくれなかったの。すごい力だったのに、彼は何も言わなくてね。そのまま抱き寄せられそうになったから私も負けじと力いっぱい引っ掻いて、無理矢理彼の手を解いて何も持たずに逃げ出したのよ。一回だけ振り返ったら、彼が頭を抱えながらうつむいて、地面に水がぽたぽた落ちていた。多分、泣いていたんだと思う。そこで戻れば良かったかもしれないとか、やっぱり、あの時彼の顔が見えなくてよかったとか、そういうことばかり考えるの。女の恋愛は上書き保存だって言うじゃない? あれは嘘ね。私はずっと、忘れられない。未だに彼の事ばかり考えてしまうのよ。おかしいでしょう。こんなおばあさんなのに。もう死ぬって時まで思い出す。あの人は私の事を覚えてくれているかしら。若い頃は強がって、忘れて幸せになって欲しいだなんて思っていたんだけど、人間こうも弱ると駄目ね。本当はずっと、私を覚えていて欲しい。私のこと忘れてないでしょうねって、毎日このベッドの中から彼を呪うの。
忙しいのに長々と聞いてくれてありがとう。また来て欲しいわ、あなたに。次も彼の話をしてもいいかしら。たくさん思い出があるのよ。お願い。また来てね。ありがとう。
「うるさい! 何時だと思ってるんだ!」
「あらぁ、ごめんなさいね。ちょっと看護師さんにお話を聞いて貰っていたのよ。おやすみなさい」
斜め向かいのカーテン越しに怒号が飛ぶ。彼女には今何時かわからなかったが、ベッドに寝ているのだから夜だろうと思ったので就寝時の挨拶をしておいた。斜め向かいの患者は元社長夫人らしいが今は自力で動けず昼夜問わず大声を出すのみだ。彼女は目を閉じた。ずっとベッドの上にいるので眠くは無いはずなのに、瞼が下りて暗闇に包まれるとその意識を手放した。
何やら廊下が騒がしい。手も足も、ついには口も動かない。死というのはもう少しドラマチックに訪れると思っていたが想像とは違って穏やかなものだった。毎日一歩ずつ、私の後ろから近づいて来て、ついには肩を叩かれるらしい。今日ようやくそいつは現れて、今まさに、私の肩に手を伸ばそうとしている。振り返る力も無くただうなずくことしかできない。時が来たのだ。間もなく私は死ぬのだろう。最後に彼との思い出を誰かに聞いて貰うことが出来て良かった。誰でもいい。たまにでいいから思い出して欲しい。私が心から愛していたのは、七海建人というとても愛情深い男だったということを。そしてもし彼に会うことがあれば伝えて欲しい。私の心にずっと在ったのはあなただけだと。
渇いた電子音が病室に響く。ついに彼女は四人部屋から個室へと移され、家族が呼ばれた。もう誰も驚きはしない。皆いつかその日が来るとわかっていたし、既に覚悟を決めていたからだ。長い入院生活がようやく終わる。彼女が語った男の話を誰か覚えているだろうか。
家族がベッドの周りを囲む。もう目は開かない。瞼を持ち上げるエネルギーさえ無いからだ。ただ彼女は自分の家族がそこにいるということはわかった。聞こえ辛い耳であったが夫と子ども達の声がわずかに聞こえてくる。誰も泣いてはいないようだと安心した。死は終わりではない。産まれた時からここへ辿り着く運命だったのだ。また始まりに戻るだけ。振り出しに戻ったら、次こそは――。
「ななみ……」
唇がわずかに開いて彼女の小さな声が聞こえた。家族の誰のものでも無い名を耳にしてベッドの周りの者は皆、目を丸くした。顔を見合わせるが誰も知らないといった表情だ。一体誰なのだ“ななみ”とは。
「このせかいがおわったら またあいましょう」
掠れた声で彼女は続けた。 子が手を握って声を掛けるが、もう彼女の耳には届かない。子の問いかけには全く反応がないのに、彼女以外誰も知らない“ななみ”へのメッセージは続く。
「あいしてるわ」
徐々に呼吸が深く沈んでいく。心臓の動きをあらわす電気信号も間延びして、画面の波形は規則性を失った。彼女はもうすぐ旅立つ。その先はどこへ続くのだろう。 彼女はこの世に未練を残したのだろうか。 今際の際に想うのは別れた男のことばかりだった。
※別れ話のリクエストをいただき書きました。