『七海聞こえる? こちら現着しました。開場まであと十分。入場整理券は手に入れましたか』
弾むような調子の声がスマートフォンの向こうから聞こえてきた。声の主は七海の同期の女である。
「既に入手済みです。現在待機中。開場後速やかに目的地に向かいます。想像以上に来客が多く売り切れが懸念されます」
片や七海はというと、普段よりもご機嫌斜めなのか眉間の皺は深く口角は下がりむすっとしている。それもそのはず、早朝より彼女の電話で起こされたと思うと今すぐ出て来いと言われたからだ。十日ぶりの休みだったので一度は無理だと言って電話を切ったのだが、またすぐにかかってきて一生のお願いがあると言うので渋々支度を始めた。駅へと向かう途中に一体何事なんだと電話で問いただしたが、現地に着いたら必ず説明するとだけ言われ一方的に電話を切られてしまい、着いてみたらこの有様だ。来てしまったのでやるしかないと決めたものの周りはほぼ女しかおらず、貴重な男はどう見てもカップルの片割れしかいない。
『了解。こちらも整理券は入手済み。目的のものが入手出来たら例の場所で合流しよう。健闘を祈る』
彼女のふざけた調子の声が聞こえてきて七海は更にげんなりした。
「この埋め合わせは必ずしてもらいます。忘れないでください」
『わかってるって。じゃ、後でね』
七海は大きなため息を吐いた。それはそれは盛大に吐いた。聞こえろ聞こえてくれ聞こえただろう。そして気づいてほしい。この気持ちに。遣る瀬無さをどこへ持っていけばいいのかわからない。プツン。ツーツーツー。虚しく鳴り続ける電子音が耳障りで七海はスマートフォンをポケットに突っ込んだ。こうなったら、なにがなんでも目的のものはすべて手に入れてやると闘志を燃やし、整理券番号七番の紙を握りしめた。間もなく開店だ。
想像以上の人混みにもみくちゃにされた七海だったが、与えられた任務は無事遂行した。ナントカという有名ショコラティエのボンボンショコラと、初出店だというパティスリーのオランジェットと、王道ブランドの限定アソートを手にして会場を去る。途中でどこかのブランドの外国人ショコラティエが登場し、購入したチョコレートにサインをしてくれるいうイベントもあった。七海は彼女が喜ぶかもしれないと思い、その列に並んだ。もちろん列に並ぶ男は七海一人である。ヒソヒソと何か言われている気がしたが無視しておいた。これは彼女の為にやっていることだし、別に誰かに何か言われても構わない。どうせ二度と会うことは無いのだから。
なんとも乙女チックな紙袋を四つほど下げて指定された場所で彼女を待つ。通行人から七海はどう見られているのだろう。百貨店の関係者か。それともデートの待ち合わせか。チョコレートが大好きな成人男性がいてもいいじゃないかと言い訳のように心の中で呟く。だが待てど暮らせど彼女は来ず、時間が経つばかりだった。メッセージが来ていないか確認するがスマートフォンは無言のままうんともすんとも言わない。噴水の縁に座って途方に暮れていたところ、遠くの方から大きな紙袋を抱えて七海の方へ走ってくる彼女の姿が見えた。
「お待たせー! どうだった?」
肩で息をしながら楽しそうに声を弾ませている。瞳をきらきらと輝かせ体中から喜びが溢れ出ているようだった。どうやら成果は上々のようだ。
「頼まれた三点は手に入れました。こちらはオマケです。アナタは?」
「ありがとう! 欲しかったのは全部買えたし、みんなにあげる分まで買っちゃった」
手に抱えていた百貨店の紙袋の中を覗き込むと、色とりどりの袋がたくさん入っていた。一体いくつ買ったのだろう。それにみんなにあげるとは、一体誰に何をあげるつもりなんだと想像して七海は腹を立てた。自分用に買うのだと言うから貴重な休みを朝から潰し彼女の為に支度して出かけたのに、他人にやるためのバレンタインチョコレートを選ぶ手伝いをさせられるとは。七海は彼女の手から大量のチョコレートが入った紙袋を奪い取ると、文句を言ってやろうと思った。
「道理で遅いと思った。せめて一言連絡してください。人混みにのまれて潰れてるのかと思いましたよ」
七海が持った袋は思いのほか重量があり、一体いくら使ったのかと考えげんなりした。一瞬慌てた彼女は焦った顔をしたが、荷物を持ってやろうという七海の気遣いを素直に受け入れ短く礼を言った。
「七海のおかげで助かったよ。これで来月まで生きられるわ……」
「これだけあれば毎日食べても無くならないでしょう」
呆れた様子で七海が言うと彼女がそもそも男と女ではバレンタインの捉え方が違うのだと弁解し始める。彼女曰く、バレンタインは女子のためのイベントだそうだ。男子はそのおこぼれに与っているに過ぎないらしい。毎年チョコレートをたくさん買い込んでは自分で食べているんだと言っていた。何か彼女に丸め込まれているような気がするが、そうかもしれないと考え直す。先ほどの会場にいた女性達は皆、試食をしながらショーケースからショーケースを渡り歩き、沢山の袋を抱えてホクホクと頬を緩ませ嬉しそうにしていたからだ。
「そしてどういうわけか、気づいたら冷蔵庫の中にはチョコレートなんて一つも残って無いんだよね」
にやりと笑って七海を見上げる。去年も一昨年も七海が彼女から適当に渡されたチョコレートはどこにでも売っているような『ザ・義理チョコ』だったが、その裏で一粒数百円の高級チョコレートを独り占めしていたらしい。信じられない強欲ぶりだと七海は思った。今日買ったものもほとんどが彼女の腹の中に消えるのだろう。
「あ、そうだ。これ七海にあげる。今日のお礼」
結構高かったんだよ、と言って胸元に押し付けられたそれの中を覗き込むとウイスキーなどの入ったチョコレートボンボンのギフトだった。控えめな紙袋とシンプルな外箱。仄かに甘い匂いが香ってくる。
「まさかこれでチャラにしようってわけじゃないですよね」
七海が下唇を突き出して目を細めると、彼女は一歩引いた。ぎくりと肩を跳ねさせている。
「違うよ! 今度は私がいつでもどこでも付き合うからね! 男一人で入りにくいお店とかあるでしょ」
何かを誤魔化すかのように早口で捲し立てる彼女は、やはりこの一箱で清算しようとしていたのだろう。七海は逃がすまいと一歩踏み込んだ。ここで一気に畳みかけようというのだ。
「では二月十四日の予定は空けておいてください」
「朝から夕方まで仕事だけど……」
「同じく。でも夜は空いてるんでしょう」
彼女は訝し気に眉を顰め七海を見ている。バレンタイン当日の予定を聞くということはデートの誘いに他ならないのに、意味を理解していなさそうな反応は甚だ疑問だ。しかし、ここで仕事以上の逃げ口上が出てこないということは、夜の予定は空いているのだろうと七海は考えた。
彼女が七海に向ける態度は同期のそれを超えていると誰もが思っている。ただ恋愛感情の有無を問われるとはっきりとはわからない。彼女にとって七海が特別な存在であることは疑いようは無いのだが、友情の延長か恋慕が絡んでいるのか、はたまた家族に向ける愛情に似たものなのかは誰も答えることが出来なかった。この曖昧な関係を変えたいと七海はずっと思っているのに、彼女から踏み込まれたことは無く今まで通りの態度が崩れたことも無い。今日彼女をデートに誘ったことは彼にとって賭けだったが、勝算はあると思っている。なぜなら彼女は意外にも押せば弱いからだ。そして更に追い詰めると一瞬緩みが生じ、そのまま攻めればボロを出す。わかってはいたが、彼女の弱点を突くことはフェアじゃないと思いとどまってきた。それでもこの関係をどこかで変えたくて、そのチャンスが今日巡ってきたと自分を奮い立たせる。
「十八時以降なら大丈夫だと思う。猫カフェ? スイーツビュッフェ? ファンシーショップ?」
「猫もスイーツもファンシーショップもいいですが、ホテルのディナーに付き合ってください。一人では行けないので」
言い終わって七海は彼女から目を逸らすことなく反応を伺った。顰めた眉はさらにぐぐっと皺を深め不審そうに七海を見ている。さあここから彼女がどう出るか。もとより七海は逃がすつもりは無かったが、その包囲網をどうやって搔い潜ろうとするのか興味があった。さあどう出る。
「えー。私が?」
予想に反して心底嫌そうに言ったその言葉は一撃で七海の心を抉った。ちょっと待て。脳内で行われた予行演習の時と違う。恥ずかしがって怒り出すか照れてそっぽを向くかと思っていたのに、普段より低い声で肩を落とし、更に最悪の一言まで。
「……いつでもどこでも付き合うと言ったのに」
想像と違うリアクションに七海は瞬時に反応できず一瞬の間をあけてしまった。自分が隙を見せてどうするのだ、しっかりしろと心の中で自分自身に言い聞かせる。感情が顔に出にくいタイプで助かったと七海は思った。
「そういうのは好きな子誘いなよ」
さらに会心の一撃が七海の心をズタズタに引き裂く。自分が異性として意識されているわけが無いとでも思っているのだろうか。それとも彼女が七海に向ける感情はやはり恋慕のそれではなく、友情だったのだろうか。ただもう後には引けずこのまま押し通すしかない。もし彼女の恋人になれなかったとしても、一日だけでもデートしてくれればそれでいいと七海は瞬時にやけくそになった。
「十九時で予約しておきます。ドレスコードはわかりますか」
「話聞いて」
彼女は足を踏みしめ拳を握り怒りのポーズをとっている。七海は彼女のその姿勢を視界に入れることなく、スマートフォンを取り出してディナーの予約をさっさと入れて既成事実を作ろうとした。そんな七海を見て彼女は更に尖った声を出し、彼の端末を奪い取る。七海は小さなため息を吐いて手を差し出すと、彼女は自分の後ろに手を組んで返すまいと拒否した。その眼は赤く充血しうっすらと涙を浮かべていたが、それがどういった感情からなされたものなのか七海にはわからなかった。
「もちろん聞いてます。アナタが私の好きな子だから誘っているんです。で、ドレスコードは。大丈夫なんですか」
「……何それ告白?」
七海は一歩踏み込み、その身長差を生かして彼女を見下ろす。すると瞳が左右に揺れて視線を逸らし、目元に僅かに溜まった涙を拭った。どうも動揺しているらしいということがわかった七海は、このまま押して押して押しまくることが正解だと悟る。
「どうもご存じないようなので今から一緒に選びましょう」
「一応成人女性だからある程度の事はご存じなんだけど」
「丁度いい所に百貨店がある」
「ちょっと待ってよ。ワンピースぐらい持ってるってば」
「信用ならない。つべこべ言わずにさっさと歩いて」
七海が手首を掴んで引っ張るとバランスを崩してオタオタしながらも七海についてきた。
「痛い! 引っ張らないで!」
尖った声で抗議しているが、先ほどとは違って頬が紅潮していた。ここで七海は勝利を確信する。
「では、お手をどうぞ」
もう一押しだと誰かが言うので七海は歩みを止めて掴んだ手首を離し、彼女に向かって再び手を差し出した。どうかこの手を取って欲しいと願いながら。
「……子どもじゃないんだけど」
「こんなところで突っ立っていると通行の邪魔です。さっさと手を繋いで」
頬を染め上目遣いで抗議しているが、それは逆効果である。手を出そうとしない彼女の小さな手を強引に掴むと一度は慌てて振り払おうとしたものの、なんと、しばらくしたら弱々しく握り返してくるではないか。七海は耐え切れず吹き出して笑ってしまった。すると彼女はむっとしてそっぽを向きながら呟いた。
「強引すぎ。七海って絶対モテないと思う」
「アナタ以外からモテても全然嬉しくないですね」
堪えきれない笑いが漏れてしまうがもう誤魔化すことさえ煩わしくなり、口元を押さえながら声を出して笑った。それをみて面白くないと彼女はまた難しい顔をしたが、ブツブツ言いながらも七海に手を引かれ着いていく。
「もっとロマンチックに言って欲しかった。思ってたのと違う」
「そっちこそ、もっと素直に喜んでは」
彼女を誘う前は嫌な汗をかき指先まで冷たかったのに、今では心も身体もぽかぽかと暖かく繋がれた手は火傷しそうに熱い。彼女も耳まで赤く染めており、顔から火を噴きそうなほどだ。いい歳をした大人が二人、真っ赤になって手を繋ぐなんてことがあるのだと思って七海はまた笑った。そんな彼らしくない行動と見た事が無いくらいよく笑う姿を見て、彼女からも釣られて笑みがこぼれる。それがあまりにも嬉しくて七海は繋いでいた手を解き、彼女の肩を抱き寄せた。
「はあ、なんかすごく暑い。早く帰らないとチョコレートが溶けちゃう」
「溶けたチョコレートを人にあげるわけにはいかない。責任を持って全部、私が貰いましょう」