酒飲みにつける薬なし





 七海が深夜に帰宅したら、愛する恋人の靴が玄関に脱ぎ捨てられていた。

――この乱雑な脱ぎ方、嫌な予感がする。

 そっとリビングへ行くと、暑くて脱いだのか風呂上がりなのか知らないが、ショーツ一枚にバスタオルをかけた彼女が床に転がっていた。テーブルにはビールの空缶が三本と、まだ少し残っていたはずのウイスキーの空瓶。七海の帰宅に全く気づくことなく、すうすうと寝息を立てていた。普段の彼女を知る人物からすれば信じられないかもしれないが、初めてのことではない。七海はもう何度かこの姿を見ている。帰宅早々彼女のあられもない姿を目にした七海は意気消沈した。事前に連絡を貰っていたので一刻も早く帰ろうと死に物狂いで仕事を終わらせ、息も絶え絶えで玄関にたどり着き、寝ているだろうと起こさないように静かに扉を開けて、自分のベッドで眠りにつく可愛い寝顔を見ようと思っていたのに。七海はバスタオルをひきはがすと、足で彼女をつついた。全く反応がない。仕方が無いので尻を蹴り、揺さぶった。足の裏に妙にむっちりした感触が残る。こんなにうんざりしているのに、肉感的な身体をみるとなんとも言えない気分になってしまう。邪な気持ちをぐっと飲み込み、転がる恋人を見下ろした。

「こら」
「……」
「おい」
「……おかえり」
「何やってる」
「いたい……けるな」
「勝手に来て人の家でつぶれないでください」
「行くってれんらくした」

 七海は彼女を足蹴にしたまま大きなため息をつき、散らばったゴミを片付けようと身をかがめる。総菜の容器にはポテトサラダの人参だけ除けられていた。子どもじゃないんだからと七海は眉をひそめ、ビニール袋にその残骸を突っ込んだ。食事はどうしたのだろうとキッチンのワークトップを見ると、蓋が開けっ放しのプラスチック容器が置かれていた。そこには肉じゃがらしきものがまだ入っているではないか。冷蔵庫に入れておいてほしかったが、せめて蓋をするかラップをかけてくれればいいものを。キッチンを片付けるため一歩踏み出すと、ポテトチップスの空袋を蹴飛ばしてしまい、中に残っていた欠片が散らばって床を汚す。ポテトサラダ、肉じゃがときてポテトチップス。じゃがいもばかり食べすぎだと呆れた。

「ああ、もう。こんなに汚くして……」

 ぶつくさ文句を言いながらふとテーブルの影に視線をやると、とんでもないものを見つけて思わず声をあげてしまう。

「あーっ!」
「ななみ、こえが大きい……あたまいたい……」
「楽しみにしてたワインを勝手に開けて!」
「まだのこってるでしょ」
「半分以上減ってる! 信じられない!」
「ごめん」
「貴女が来た時にあけようと思ってたのに!」
「ごめんってば」

 反省の色を全く感じられない謝罪をされたが到底許す気になれない。全く起き上がろうとせず、目を閉じてモゾモゾしながら七海に適当な返事をしている。七海はあぐらをかいて頭を抱えると、彼女の表情を覗き込む。静かに息をしているだけで、その表情からは何も読み取れなかった。自分の限界を知っているはずなのに、なぜ前後不覚になるまで飲むのだろう。何度か目にしたことのあるこの光景、なんとも形容しがたい憂鬱な気分が押し寄せる。

 彼女の柔らかな二の腕を掴み身体を引きずり上げると小さな呻き声をあげた。力を完全に抜いて脱力しているのでずっしりと重く、無理やり立たせようとするがグニャグニャするだけで自力で立ち上がる努力を一切しようとしない。七海は歩かせることをあきらめて再び床に転がすと、彼女はもう一度小さく唸った。

「風呂は」
「まだ」
「だらしない。さっさと入って」
「今日はもういい」
「いいわけないでしょ全く」

 七海は彼女を米俵のように担ぎ、脱衣場に倒した。硬い床で肩を打って痛いと言っていたが抵抗する気はないようで、ぼんやり薄目をあけてタオル掛けを見ている。これから入浴することを理解しているのかさえわからない。引き裂くようにショーツを無理矢理脱がせると、控えめに整えられたふわふわの陰毛が目に入った。彼女のものならそれさえも可愛らしいが、ここにいるのはタチの悪い酔っぱらいなので忘れることにする。

 彼女を引きずるようにしてバスチェアに座らせ、湯温を確認することなく頭からシャワーをぶっかけてやった。当然シャワーヘッドからは冷水が出る。これで少しは酔いは醒めるだろうか。

「ぎゃあ! つめたい!」
「適温です」

 意地悪だと不平をのべているがもちろん自発的には動くことなく、七海にされるがままになっている。ようやく温かくなってきたシャワーを背中にかけてやると、こうべを垂れて静かになった。水に濡れた髪やうなじが官能的だが、目の前の女は酒に酔ってぐったりしているただの酩酊者なので欲情してはいけない。こんな状態の人間をどうこうするのは犯罪者だけだ。

「ちょっと! ぐらぐらしない」
「してませーん」

 小学生男児のような煽り方に心を乱されている場合ではない。普段はしっかりしているのに、酒が入るとまるでダメになってしまう彼女が心配でならなかった。二人で飲んでいるとき、ふにゃふにゃになって可愛らしいと思うこともあった。しかし少々度が過ぎる。七海以外の人間の前でもこうなるのに、みんな面白がって飲ませるし調子に乗って飲むので無防備極まりない。お持ち帰りされたり記憶が少々飛ぶくらいならまだいい方だ。以前は泥酔状態になり路上に倒れていたところを発見した通行人が救急車をよんで、病院から呼び出されたこともある。見知らぬ番号から深夜にかかってくる電話が良い知らせなわけはなく、病院職員から彼女の名前を告げられた時、心臓が止まりそうになった。冷や汗をかきながら必死で迎えに行ったらそんな七海の心配はよそに、気持ちよさそうに病院のベッドで眠ってるではないか。疲れ切った当直の医師から酒の飲みすぎだと投げやりに説明され、居たたまれなかった。そのあとも二度、救急搬送されている。最後の一度は吐きすぎて吐血してしまい、明け方に胃カメラまでしたのに。まったく懲りない。

 こんな状態の彼女を見ているとき、七海はまるで保護者のような気持ちになるのだ。

 ごしごしと乱暴に身体を洗うと痛いだの優しくしてだの不服そうな声を出している。そんなことは知らないと七海は頭からつま先までボディソープで洗ってやった。コンディショナーをつけろと言っているが無視しておく。こんな姿を何度も見せられる気持ちをいい加減に理解してほしい。彼女を洗い終えバスルームの床に座らせると、閉じていた瞼を開けてバスタブに手をかけ立ち上がろうとしはじめる。ふらふらで危ないので腕を持って支えると、からっぽの浴槽に入っていった。

「お湯がない」
「今日は早く上がって寝るんです」
「えー! 冷える」
「うるさいな」
「辛辣……」
「酔っぱらいの世話ばかりさせられてたらいい加減うんざりするでしょう」

 彼女は空の湯船にぐったりと入っている。身を縮めて震えていたのでシャワーをかけてやると、満足そうに笑った。七海は身体を洗う合間にシャワーで彼女を温めて五分ほどで作業を終える。そう、これは彼女を丸洗いするという業務。そうでも思わないとやってられない。浴槽から彼女を引っ張り出してバスマットに座らせ身体を拭いていると、濡れた髪から水滴がぽたぽたと大腿に落ちていく。瑞々しい肌が雫を弾いた。いやに官能的である。髪を適当に拭き、新しいタオルを頭にかぶせるとゆっくり自分で拭き始めた。少しは動けるようになってきたらしい。パジャマを着せてドライヤーを終えると嬉しそうな表情で七海に抱き着いてきたので、そのまま抱きかかえてソファに運ぶ。もごもご何かを言っている気がするが、全くわからなかった。

 水を飲ませて寝かせなければ。

「さあ飲んで」

 グラスにストローをさして口元へもっていくと、目を閉じたまま水を飲んでいる。ソファに寝ころびそうになったので、七海は慌てて隣に座って身体を支えた。彼女はそのまま倒れて七海にもたれかかり、ストローを咥えたまま少しずつ飲水した。

「もうこんなになるまで飲まないでください」

 返事はない。もういらないのか口を閉じ、首を横に振っている。グラスをテーブルに置くために身体を前にやると、もたれかかっていた彼女がソファと七海の間にはさまった。もういい。このままにしておく。明日の七海は五時半起き。現在、深夜二時。

「トイレは」
「いく」

 自分で行かせることを早々に諦めた七海は、彼女を担いでトイレへと向かう。トイレの中に立たせ扉を閉めようとすると「まってて」と言われ、その場に留まることになってしまった。ズボンと下着をおろして下半身を露わにし、便座に座るとちょろちょろと排尿する音が聞こえた。彼女は目をつぶってゆらゆらしている。トイレットペーパーで股を拭き、よろけながら立って服を整えはじめた。前に倒れそうになったので肩を支えると、なぜかむっとした表情で唇を尖らせている。

「みないでよ」
(自分が行くなと言ったんだろう!)

 七海は声に出して抗議してやりたかったが、酔っ払いに聞く耳はないので心の中で叫ぶにとどめておく。恋人が放尿しているところを見せられているこの状況はなんなのだ。これは変なプレイではない。七海は混乱する頭を抱えながら、どうしても目が離せないでいた。

 歯を磨かせベッドに降ろすと、一緒に寝ようと隣をぽんぽん叩いてみせる。電気を消して七海もベッドにもぐりこむと、背中から彼女の吐息交じりの声が聞こえた。

「エッチしたい」
「しません。明日朝早いんです。それに、そういうことは酒が入ってない時に言ってください」
「えー! たえられない!」
「もういいから寝て」

 タオルケットをかけ背中をトントンしてやると、三十秒も経たずに夢の中。幼児より容易く眠りに落ちた。自分から誘っておきながらすぐに寝てしまうとはどういう神経をしているのだろう。疲れていて今すぐに眠りたいのに、ずっと見せつけられ続けた彼女の無防備な姿と最後の誘いで不覚に下半身が元気になってしまった。七海は何度目かの大きなため息をつき布団を肩までかぶり、身体を丸めて静まるのを待つことにする。彼女は明日の朝、どんな顔をして起きてくるのだろう。目を閉じると七海もすぐに眠ってしまった。

 寝たと思ったら一瞬にして朝が訪れる。布団に入ってからの体感時間は五分程度だが、時計の針はしっかり午前五時半を指していた。隣で眠る彼女を見ると、着せたはずのパジャマを脱いでまたショーツ一枚になり、だらりと手足をベッドに投げ出していた。

「うぅー、頭痛いよお……」
「鏡見てきたらどうですか。顔パンパンですよ」
「見たくない。見ないで」
「瞼のむくみが特に酷い。飲み過ぎです。反省して」

 七海がベッドから出ようとすると、彼女は腕を七海の腰に巻き付けて阻んだ。邪魔だと言うと腕を離し、抱っこして連れていけと両手を広げて待っている。酒で脳が溶けたのか三歳児のような甘え方に眉をひそめる。仕方なく抱きかかえ洗面所に置き去りにして、七海は一人でトイレへ向かった。洗面台から水の流れる音が聞こえ、顔は自分で洗うことができたようだとほっとした。

 キッチンでコーヒーを淹れると爽やかな香りが部屋中に広がる。コスタリカにある、数年前に賞を取った農園のものだ。コーヒーメーカーの前で出来上がりを待っていると、後ろから彼女の残念そうな声が聞こえてきた。

「あーあ、あのワイン開けちゃったんだ」
「貴女でしょう! もう、何も覚えてないんですか」
「えっ、ごめんなさい」
「二度と私のいないところで飲まないと約束すれば許します」
「二度と七海のいないところでは飲みません」
「絶対ですよ」
「絶対です!」

 大きく頷き背筋を伸ばしてびしっと敬礼して見せるその姿があまりにも嘘くさく、信じられるはずがない。頭を抱える七海を見て彼女は大きな声を出して笑った。そうしたら笑い声が頭に響いたらしく、こめかみを押さえて悶えている。ちょっとは反省して欲しいものだと、七海は冷ややかな視線を送った。

 支度を終えてさあ出ようと玄関の扉に手をかけたとき、彼女がのそのそと重い足取りで見送りにやってきた。もじもじしながら言いにくそうにしたあと、上目遣いで呟く。

「……ねえ、私たち昨日、エッチした?」
「してません! 全くもう。行きますから」
「行ってらっしゃい」

 きょとんと不思議そうな顔をしている。なぜ脱いでいたのかと考えているのだろう。酔うと脱ぐし、見境なく酒をあけるし、ゴミは散らかすし、記憶も無くす。全く世話が焼けると七海は呆れながらも、彼女に対してあまり強く出ることができないでいる。男は惚れた女に弱いのだ。七海は苦虫を噛み潰したような顔をして早朝の仕事に向かった。

 まだ人々は眠っているのだろうか。静かな街並みと冷たい朝の空気が心地よい。彼女は今頃、七海の家で二度寝しているに違いない。今日は休みだと言っていたので、きっとそのまま自宅へ戻ることなく七海の帰りを待っているはずだ。今夜は早く帰って深夜できなかったことをしようと思ったら、先ほどまでの光景が目に浮かび腰から下がむずむずした。朝イチから考えることではなかったとスマートフォンで可愛い動物画像を検索して、心を落ち着かせる。

 今日は絶対に定時上がりだと心に決め、駅へと向かう足を速めた。