ぬい七処女懐胎





 昔から親に連れられ訪れていた高専。二〇〇六年の春、来賓側席から見た金髪の男の子。そのときから私は、七海建人くんにずっと恋焦がれている。真っ直ぐに伸びた背筋。堂々とした態度。落ち着いた声。美しい髪に憂いを帯びた瞳。何もかもが素敵で、都会にはあんなにかっこいい男の子がいるんだってドキドキしながら眺めていたっけ。そんな七海建人くんと初めて喋ったのは数時間後。父と一緒に挨拶をしたら、私の目をまっすぐに見て「はじめまして。七海です。よろしくお願いします」って言った。慌てて名前しか言えなかったな。そのあと父が夜蛾先生とどっかへ行っちゃって、七海建人くんと灰原雄くんと三人で、同い年だという話で少しだけお喋りした。

 あれからずっと、一秒だって七海建人くんのことを忘れたことなんて無い。ずっとずっと、貴方のことだけ見てる。灰原雄くんが亡くなったときも、夏油傑さんがいなくなったときも、七海建人くんが高専を辞めたときも、大学のときも、バイトしてるときも、就活してるときも、疲れた顔してコンビニにいるときも、いつだって貴方を見ていたんだよ。まさか戻ってくるなんて思わなかったけど、嬉しかった。おかえり、七海建人くん。

 ずっと待ってたよ!

 長い階段を上がれば広大な敷地内に古い建物が点在し、遠くから学生たちが鍛錬を積む声が聞こえてくる。決して多くは無い声の数。今年度もきっと生徒数は多くないのだろう。変わらないな、と七海は思った。囁くような草木の擦れる音を聞きながら、七海は懐かしい砂利道を歩いた。時が止まっているのではないかと錯覚するほど何もかもがあの頃のままだ。

「はじめまして。七海です。よろしくお願いします」
「……あ、はじめまして、じゃないです」

 七海が出戻り、伊地知と雇用契約を交わしたあとのこと。等級査定のために同行する術師として紹介された女が俯き加減で答える。女ははじめましてでないと言うが、七海にはどこかで会った記憶は無い。それでも女が小さな声で名乗ると、その名を耳にした途端、青春時代の記憶が蘇り、初めて高専へ訪れた日が昨日のことのように思い出された。入学式の時に出会った同い年のあの子だ。たまに会ったら三人でよく喋ったものだと七海は懐かしく思った。女をまじまじと見てみる。背格好は変わらないのに着ている服がセーラー服でないせいか、まるでかつての少女とは別人のようだった。昔よりも随分と髪が伸び、美しくまとめられている。もともと色白だったが今や透けてしまいそうなほど肌は白い。うつむき加減なのは変わらないが、今は呪術師として独り立ちしているせいか昔のような自信の無さは微塵も感じられなかった。声はあの時のままで、七海の頭の中には楽しかった思い出や苦しかった日々が一気に蘇りぐちゃぐちゃになった。出戻ると決めたときに覚悟していたものの、案の定苦々しく重い気持ちになってしまう自分に七海は呆れた。

「思い出してくれたかな。七海くん、色々あって大変だったね」
「……思い出しました。その節は、どうも」

 もっとマシなことを言えばよかったと思ったが、不意打ちをくらって気持ちがどんよりと重くなっている。そんな七海を見透かしているのか、女は申し訳なさそうな表情をして業務連絡を始めた。任務の内容は大したことがないのに、ブランクのせいか虚を突かれたせいか不安な気持ちがじわじわと七海を侵食していく。そんな七海を見て、女はにっこりと柔らかく微笑んだ。

「大丈夫。心配しないで。七海くんなら、すぐに勘を取り戻せるから」

 七海は一言礼を言って女の後を着いていく。戻ると決めたのだから、やるしかない。

 女の淡々とした説明を聞き終え、その足で現場へと向かう。道中の車内で思い出話にでもなったらどうしようかと思ったが、女は業務連絡以外せずに黙って車を運転していた。現場に着いても特段手出し口出しをすることなく七海を見守り、もちろん何の問題も無く初任務を終え、そのまま高専へと戻って報告書を仕上げる。手続きと初任務を同日に終えた七海は晴れて呪術師復職となり、それからしばらくは指導員という名目で女が同行し、いくつかの任務を終えたのち、はれて独り立ちとなった。

「ただいま」
「今日で任務同行が終わっちゃうの。寂しいなあ」

 女は玄関のダウンライトを点けて靴を脱いだ。入ってすぐの扉を開け、パチリと壁面のスイッチを入れると室内は昼間のようにパッと明るくなった。壁一面に貼られた七海の写真が女を出迎える。高専の頃から現在に至るまで、七海のことをずっと想ってきた。だからいつどこで何をしているのか知りたかった。ただそれだけだ。

 ベッドサイドに立つ、特別によく撮れた七海の等身大のパネルに向かって女が言う。

「もう会えないのかな。会いたいよ。今日で終わりなんて絶対に嫌だ」

 女は涙を流しながらパネルに訴えた。証明写真のような真面目な表情でパネルの七海は女を見つめている。

 ずっと七海のことが好きで、一途に愛し続けてきた。好きだと告げても良かったが、呪術師を離れた七海を追いかける気にはなれなかった。どこか自分の知らないところで幸せになって欲しいと思わないこともなかったけれど、どうしても七海のことが忘れられずに追いかけていた。もう会うことはないと諦めていたのに、七海が出戻ったことで女の積年の想いは煮え滾る溶岩のようにぐらぐらと沸いた。もうどうにも止められない。お互い呪術師である以上、相手の枷にはなりたくない。それでもただひっそりと焦がれるだけは許して欲しいと思い続けた結果、女の部屋は七海の盗撮写真だらけになってしまった。これでは完全にストーカーだとは思うがやめられない。そのうちにこの異様な光景に慣れ、七海には何一つ迷惑をかけていないのだからいいではないかと開き直るほどになってしまった。

「七海建人くん好き。大好き。戻ってきてくれて嬉しい。でも会えなくなって悲しい。ずっと一緒に居たい。愛してるよ!」

 今日も女は壁に向かって愛を叫ぶ。その後は身体を清めて七海の好みそうなランジェリーに着替え、お楽しみの時間だ。想像上の七海の形をした射精機能付きディルドを引き出しから取り出し、精液を模した白濁のローションを注入した。これで自分の好きなタイミングで疑似的な中出しが体験できる。女が思うに、七海のペニスは日本人の平均サイズをはるかに超える長さを誇り、カリ高で根元は太い。それから陰嚢はたっぷりと大きく、睾丸も同様に平均サイズより上である。なぜなら七海は外国の血が入っているし、一般的な成人男性と比較して体格がいい。それに高専のころ、五条と夏油の下世話な噂話を盗み聞きしたことがある。二人そろって七海は大きいと言っていたのだ。だから女の想像に間違いなはい。七海のペニスは大きい。当然、テクニックも一流だ。そんな七海を想像しながら女は毎夜、自慰に耽っていた。

 今宵も女は数度絶頂に達し、息も絶え絶えになりディルドを自身から引き抜いた。ドロリと中から七海の精液に見立てた潤滑剤が溢れてくる。ぬるぬるとしていて生温かく、栗の花の匂いがするそれはまるで本物のようだ。今日の七海は激しかった。これから会えない寂しさを紛らわせるように女を強く抱きしめながら中を抉り、子宮口をこじ開けんばかりに突き上げ、最奥に押し付けて大量の精液を放出した。

 先ほどの行為を反芻しながら女は息を整える。いつも終わった後のこの瞬間が虚しい。リビングに敷かれたバスタオルの上に流れ落ちたローションと自身の雌穴から出る卑しい汁。始める前と最中は興奮していて夢中になれるのに、終わったら現実が待っている。壁に貼られたたくさんの七海から嗤われているような気持ちになりながらも、女は淡々と後始末をして部屋着に着替えて床に就いた。今日は排卵日だったので中が疼いて仕方なくいつもより激しくしてしまったせいか、腹の底がズキズキと痛む。七海の上に乗ってめちゃくちゃに腰を振ったせいかもしれない。布団の中で下腹部を優しくさすると、ポコポコと腹の中で何かが蠢く気配を感じた気がした。女はその動きを特段気にすることなく、のそのそと布団から這い出て鎮痛剤を飲んで再び目を閉じた。本物の七海とキスやセックスがしたい。そんなことは到底かなわぬ夢であると自分を戒めたあと、おやすみなさいとパネルに囁く。優しい声でおやすみ、と返事が返ってきたような気がしたが朦朧としていたので気のせいだろう。

 翌朝女は下腹部のひどい違和感で目が覚めた。痛いというか、張っているというか、なんとも形容しがたい不愉快な感覚だ。恐る恐る腹を触ると、不思議なことにそこだけぽっこりと膨らんでいた。確かに朝一番は膀胱に尿が溜まっている。しかしこの腹の疼きは尿意では無い。別の種類の痛みが下腹部にある。どうしようかと悩んでいると、嘘のように痛みが引いた。それでも下腹部の膨らみは消えず、思わず手で擦っているとまるで妊婦になったようだ。

「七海くんの赤ちゃん……、だったらいいのにな」

 口に出してみるととんでもない狂言に思えて、思わず女は苦笑いをした。全く馬鹿げている。妊娠するようなことなど、ただの一度もしたことが無い。不毛な行為はなんども経験しているが、本物のセックスは未経験だった。きっと一生処女だろう。七海以外と身体を重ねるなんて、気持ち悪くてできるわけがない。

 女はトイレで排泄を終え、冷たい水を一杯飲んだ。朝食はいつも食べる気になれないのに、今日はなんだかやけに腹が減る。ぐうぐうと腹の虫が鳴き、たまらず冷蔵庫を開けたそのとき。

「なんだか、また、お腹が痛いかも……」

 今度は先ほどとは違って明確に絞られるような痛みが下腹部全体に出てきた。腹に触れてみるとガチガチに硬くなり、これはただ事ではないと感じた。もう一度トイレに座ってみるが何かが出てくる気配は無い。腸炎になったときのような痛みに似ているけれど、何かが違う。臍の周りが痛いというより、下腹部が張って締め付けられるような感じがする。しばらくトイレで過ごしているうちに、痛みが規則的になってきていることに気が付いた。ググッと腹が張って激しい痛みがきたと思ったら、何事も無かったかのように痛みがなくなる。こんな感覚は未だかつて感じたことが無く、スマートフォンの電話アプリを起動して一一九と打ち込んだ。救急車を呼んでいいのだろうか。それとも家入に相談すべきだろうか。通話ボタンをタップする前に悩み、結局救急に電話することはやめた。排泄すれば落ち着くかもしれないと、もう少しトイレで粘ることにする。

「んぐーッ、痛いッ! 痛いよォ!」

 また激しい痛みがやってきたと思ったら、しばらく耐えていると全く痛みが無くなってしまう。もう三十分以上も同じことを繰り返している。一体いつまで続くのだろう。

「いったいなんなの……。どうなるの、わたし……」

 女の額に脂汗が滲む。痛みのあまり握りしめた拳を開いたら、力を入れ過ぎたせいか内出血していた。フウフウと呼吸を整えていると、今まで以上に激しい痛みがやってきた。獣のような雄叫びを上げそうになるのを必死に堪えて唇を噛む。じわりと出血して口の中に鉄錆のような味が広がった。立っていられなくなりトイレの床に座り込む。すると未だかつて感じたことのない力が己の内から湧き上がり、トイレの便座を抱え込んで思いきりいきんだ。大股を開いて本能のままに腹に力を籠めると、中から何かが出てくる気配がした。腹の中に、何かが居る。どういうわけか、いつの間にか命を宿していたらしい。平時なら不気味に思うだろう。しかい猛烈な痛みで消耗していた女はもう何もできなくなっていた。これを早く出したい。それしか考えられない。

「がッ、ぎ、い、いだァい‼ ヴーッ! ぎッ、んぐゥ……!」

 持てる力の全てを振り絞ると、女の膣道をめりめりと広げて何かが下りてくる気配がした。このままでは出てきたモノが床に落ちてしまうと、咄嗟にトイレの手洗い用タオルを股の下に敷いて受け止める。ぼとりと女の穴を通って出てきたのは、両掌に乗りそうなサイズの丸い物体だった。

「ハァ……はァっ……! こ、これ、なに……⁉」

 もぞもぞと蠢く物体。どこかで見たことがあるグレージュとブロンド。女のものなのかわずかに血液が混じった粘液が付着しており、可哀想になってタオルでそっと拭いてやる。すると子猫の泣き声に似た弱々しい声を出した。ふわふわと柔らかく温かい。間違いなくこれは、生命体だとわかる。じっと見ていると規則的に身体が膨らんだり縮んだりしているので、呼吸しているようだ。もぞもぞと自らタオルに身体を擦り付け、汚れをふき取っているようにもみえる。

「赤ちゃん、なの? でも、なんで……?」
「な、ななみけんとくん……!」

 思わず女は手を伸ばす。七三に分けられた髪。特徴的なサングラス。きっちりと絞められたネクタイまで、すべてが七海建人と同じだった。決定的に違うのは、丸くて、小さくて、ふわふわで、コロコロしていて、ぬいぐるみのようだというところだ。女が手を差し出すと、七海建人のようなぬいぐるみはトテトテと歩いて女の手に乗った。それから頬ずりをしてぺこりと会釈した。想像よりも軽く、柔らかい。ヒトの体温程度の温かさがあり、どこからどう見ても命があって生きている。喋ることはできないようで、短い手をパタパタと上下させながら何かを訴えた。

「どうしたの? 何か言いたそう……」
「ミ、ミ……!」
「抱っこして欲しいの?」
「ミィン……」

 ペコペコと頭を動かしている様子を見るに、やはり抱いて欲しいと訴えているようにみえた。女は七海のぬいぐるみをそっと胸に抱きかかえる。するとスリスリと頭を擦り付け、うっとりと目を閉じた。まるで赤ん坊のようだ。産まれた瞬間から母を求め、女に擦り寄っている。本能だろうか。

「か、かわいい……!」

 女は産まれて初めての感情を抱いていた。それは世間一般から母性と呼ばれる感情だろう。

――この子を守らなくちゃ。立派に育ててみせる!

 女は決意した。そして、七海建人にそっくりなぬいぐるみを優しく撫でた。

 それから七海建人に似たぬいぐるみ通称〝ぬい七〟との共同生活が始まった。手探りではじまった生活。試行錯誤する毎日だ。どうやら食事を必要とせず、排泄もしない。その代わり愛に飢えているのか四六時中女の傍を離れようとせずくっついてくる。出かけようとしたらミイミイと悲しそうに泣くので、鞄に潜ませて連れて行った。女が話した言葉をよく聞いて覚え、今では簡単な会話が可能だ。声は当然七海建人そのもので、女が教えた通りに七海っぽく喋る。手足が短く身体は丸いので細かい作業は苦手なようで、生活全般に手助けが必要だ。女の献身的な世話の甲斐あってぬい七は少しずつ成長し、今では女と同じくらいの大きさになり、抱き上げるのが難しくなってきた。まん丸ボディなので自宅内でかなりの場所を取るが、そんなことは二人にとってさしたる問題では無かった。

 ぬい七は女から教えられた通りに言う。

「私と結婚してください。愛しています」

 女は答える。

「うれしいなぁ! そうしたら建人くんとずっと一緒にいられるね」

 嬉しそうに頬を染め、ぬい七は女に抱き着いた。小さな手をパタパタさせてそのふわふわの身体で女へ目一杯の愛を捧げるのだ。産んだ当初は子どものように可愛がっていたが、今では恋人同士のように甘い生活を送っている。もう鞄には入らないので、自宅に帰ってきたら愛の営みが欠かせない。まずは抱き合って、それから緩く弧を描いているようにみえるぬい七の可愛い唇に口付けをして存在を確かめ、ベッドで愛を囁き合いながら交接する。ぬい七は性器を持たないが、挿入だけがセックスではない。女の想像上の七海建人同様、ぬい七だって最高のテクニックをもっているのだ。

 まあそんなわけで、わけもわからずぬい七処女懐胎でさらに自宅出産までした女は、他人から見たらかなりおかしいかもしれないが、意外にもバレることなく当の本人はわりと幸せに暮らしていた。

 だが、そんな生活も長くは続かない。ある日ヘマをして怪我をした女は、ラッキーなことにリアル七海建人に自宅前まで送ってもらっていた。怪我は家入に治療されて既に痛くも痒くもないというのに、共に任務へ就いていた七海が自宅まで送り届けると申し出てくれたのだ。本物もぬい七も紳士的だ。そんな七海建人のことが大好きでたまらない。女は緩む頬を必死に隠した。こんなところをぬい七に見られたら大変だ。

 女の住処に到着して車を降りた女はここまででいいと断ったのに、七海は自宅へ入るまで見届けないと気が済まないと言って譲らない。七海はそのまま女を押しのける勢いで半ば無理矢理玄関へと向かい、突然歩みを止めたと思ったらその場でうつむいてしまった。なんだか切羽詰まった様子の七海を見て女は更に焦る。

――まさか、ぬい七のことがバレてるの……?

 そんな女の心配をよそに、七海は真剣な表情で女を見つめて口を開いた。

「最近、顔色が良くないようです。それに、仕事中しょっちゅう電話に出ている。何か、困ったことがあるのでは」

 それはとても温もりのある、落ち着いた声色だった。女のことを心底心配していて、手助けしてやりたいという気持ちが痛いほど伝わってくる。そして明らかな好意を感じるのは、女の都合の良い勘違いではなさそうだ。

「七海くんが心配するようなこと、何もないよ」
「アナタが、悪い男に騙されているのではないかと心配なんです」
「ほんとに何も――」

 女が必死に誤魔化そうとしていると、玄関の扉が大きな音を立てて開いた。女はぎょっとして一歩引き、七海は女をかばうようにして前へ出た。二人の視線の先にある玄関にはみっしりとぬい七のまんまるボディが食い込み、怒りの感情を爆発させていた。普段は優しい目にはぎらぎらと嫉妬の炎を燃やし、どす黒い呪力を漂わせ今にも七海建人に襲い掛かりそうだ。

「これは、いったい――」
「これは、あの、えっと、ぬいぐるみなの! なんだか、大きくなっちゃって……!」

 困惑する七海に向かって必死に弁解しながら、女はなんとかこの場を丸くおさめる方法はないかと思案していた。もちろん名案などすぐに浮かぶはずもなく、右往左往しながらあっちへこっちへ視線を泳がせただけだ。七海をなんとか自宅から遠ざけようと押して引いてみるがびくともせず、途方に暮れそうになったそのとき。ぎちぎちとドア枠が悲鳴をあげているのを聞いて女は血の気が引いた。ぬい七が、出てこようとしている。

『そのひとに触るな』

 薄桃色の刺繡糸で作られた動かぬ唇から発せられる低い声を聞いた七海は、自分の耳を疑った。自分と全く同じ声だ。しかし纏う呪力は女そのもので、この呪霊は既に実体までもってしまっている。一体全体、何が起こっているのか理解ができない。自分と同じ声帯を持つ自分に似た呪霊。それがなぜ、女の家に存在しているのだろう。

「アナタ、自分が何を飼っているのか理解していますか?」
「ま、待って! あの子、悪い子じゃないの!」
「何がどうなったのかはわからないが、こちらに敵意を向けている。目を覚ましてください!」
「あ、あぁ……! 建人くんが……! だめぇ……!」

 女は七海の腕に縋ったが、時すでに遅し。ふわふわもちもちまんまるボディを七対三に分断されたぬい七は、跡形もなく消滅してしまった。女はその場にへたり込んで、消えたぬい七を想ってしくしくと泣いた。自分の欲望のために作り出した幻だったのかもしれないが、腹を痛めてこの世に産み落としたのだ。ぬい七と過ごした時間は確かに存在し、満たされていたのもまた事実。同時に、呪術師でありながら呪霊を生み出すほど正気を失っていた自分を恥じた。七海建人が好き。ただ純粋に思い続けているだけで幸せだったのに、いつしか膨らみ続ける己のリビドーを持て余してあらぬ方向に暴走してしまった。そんな女を慰めようと、七海建人は言う。

「アレは呪霊だった。アナタは何も悪くない」
「ご、ごめ、ごめんなさ……、わたし、――」
「本物が目の前にいるというのに。あんな傀儡よりよっぽどいいでしょう」
「嫌いに、ならないで……」
「驚きはしましたが、嫌いになんてなるわけがない」

 七海は女を優しく抱きしめた。リアル七海は筋肉質なので硬いという女の予想は外れ、本物の七海もふわふわしていた。胸にすっぽりと顔を埋めると胸筋が柔らかく女を包み込む。ぬい七とは違って腰回りは引き締まっており、腕を回すことができる。心臓の鼓動が聞こえ、呼吸の度に身体が少し膨らんだり縮んだりしている。男臭い汗の匂いもする。生きている。本物の七海建人だ。最初からこうやって、気持ちを伝えればよかっただけだったのではないか。

 七海が腕の力を強めると、女の頬が七海の内ポケットにあるやわらかい何かに当たった。ポケットの中の物体がわずかに動いた気がする。

「おっと失礼。これはお気になさらず」

 七海建人に抱かれ女は満足気に笑う。

 扉の向こうは禁足地。
ジャケットの内側は溢れた愛の隠し場所。

 秘密を抱える二人がお互いの真実を知る日は来るのだろうか。