本当はあなたの目を見て伝えたい





「……貴女のことが好きだと言った」
「せめて私の目を見て言ってよ」

 後半はほとんど聞き取れないか細い声だ。その後も口ごもる七海を覗き込むが、視線は一切合わない。一言もなく出戻りしてきて、急に好きだなんて言われても都合がよすぎる。戻ってきてくれて嬉しかった。でも、素直に喜べない。私がひねくれているから悪いのか。それとも煮え切らない七海が悪いのか。微動だにしない私たちの間に流れるひりひりした空気とは裏腹に、森の中には小鳥の美しいさえずりが響いていた。



***



 時はさかのぼり数日前。久しぶりに寄った高専で、また昔のことを思い出していた。七海が高専を出て四年。日々に忙殺されて七海のことなんか忘れてた、なんて日は一度もない。毎日七海のことを思い出して、悲しくなって、諦めようって考えて眠るのに、次の日にはまた七海のことを考える。不毛で、生産性はなく、気分が沈むだけのこの行為を何度繰り返しただろう。

 今どこにいますか。何をしていますか。
 楽しいですか。笑っていますか。

 私のことなんかもう、忘れましたか。

 我ながら気持ち悪いなと思いながら、延々と七海のことを考え続けている。ふとした瞬間、頭に過ぎるのは七海との何気ない日常。悩み苦しみ、耐え抜いた青春の日々。好きだったパン。三人で話し込んだベンチ。灰原が帰らぬ人となったあとに涙したとき、渡した缶ジュースのパッケージ。七海のように繊細な人が術師を辞して良かった思う反面、外の世界で幸せになって欲しいとは思えなかった。彼が七海建人である限り、一人で背負って、飲み込んで、沈んでしまう。そんな人間だと知っているから、きっとどこで何をしていても苦しんでしまうだろう。だからといって、戻ってきて欲しいとも思ってなかった。それなのに。

 いつも以上に鬱陶しい五条さんの絡みが終わったあと廊下を歩いていると、曲がり角の向こうから聞きなれない足音が近づいてきた。コツコツと規則的に鳴っている。なんだか神経質そうだ。大柄の男に違いない。女性ものの靴はもっと高い音がする。誰だろう。息をひそめて待っていると、廊下の角の前で音はピタリとやんだ。私の存在に気づかれている。こういった場合は、知らんぷりをして出て行くか、逃げるかの二択だと思う。もちろん選ぶのは〝逃げる〟に決まってる。だってここは高専で、相手はアンノウンで、私に気付いていて、こちらを窺っているのだから。踵を返して来た道を戻る。この先は駐車場へと抜ける、あまり使われていない裏口だ。靴音は角まで少し進んで、また止まった。多分、いや、完全にバレているけれど、ここはもうこのまま逃げ通すしかない。ほら。もう追ってくる気配は無い。勝った。ざまあみろ。そんな悪態をついてニヤついていると、藪の中から急に五条悟が出てきた。

「あ、いた」
「げっ」

 一体どこで何してるの。相変わらず理解に苦しむ先輩である。先ほども会っていたのに、まだ何か用があるらしく私を手招きしている。いや、お前がこっちにこいよ。そう言ってやりたいけれど、高専時代からしこたま酷い目にあわされてきたので、条件反射的に従ってしまう。

「なんですか……」
「七海が帰ってきてるって言い忘れてたから、この僕がわざわざ戻ってきてやったのに、なんでそんなにイヤそ~な顔してるんだよ」
「ななみ、って、……はァ?」
「嬉しい? 悲しい? 今どういう感情~?」

 長身を折ってわざとらしく顔を下から覗き込んでくる五条さんに、いつもならめちゃくちゃ腹を立てて届かないパンチを繰り出しているはずだ。でも、今は、その場から動けないでいる。

 七海が。帰ってきた。どこへ。ここに。なんで。

 意味がわからない。

「出戻りだなんて七海も相当イカれてるよねー」
「五条さんにだけは言われたくないと思いますよ」

 さっきから心臓がうるさい。酸素が薄いのか目眩がする。私、今ちゃんと立ってるのかな。とりあえず、ツッコミはできたから、口は動くんだとわかる。

「また皆さんには改めて挨拶します、だってさ。そこらウロついてるから、改めて挨拶されてきたら? 今日来てるって言っといたし」

 目隠ししているのに笑っているのがわかって腹が立つ。脳内では今度の飲み会でオレンジジュースにアルコールを混入させて、ヨロヨロになった五条さんをボコボコにする妄想をしている。当の本人は六眼で見なくても私の頭の中を覗けるのか、プププとわざとらしく吹き出し笑いをして、去っていった。本当にふざけた先輩である。

 しかし困ったな。私の心臓は今、ものすごく鼓動を早めている。これはつまり、七海の復帰に動揺しているに他ならない。そうすると先ほどの靴音は七海だったのかもしれないと思えてきた。もし、七海だったら。私はいったい、どんな顔をして会えばいいというのだ。七海が好きだという気持ちがようやく薄らいできたような気がしていたのに、今、彼に会ってしまうと全部があふれ出てきてしまうのではないか。会いたい。会いたくない。二つの相反する感情がぐるぐる巡って、身体の中を這いずり回っている。古傷を内側から抉られているような感覚が心底不愉快だ。それなのに、口角が自然と上がってしまう。喜んでいいのか悪いのか、頭ではわからないというのに。

 次の日、回収した呪物を封印するため、再び私は高専を訪れていた。結局あの日はぐだぐだしている間に呼び出されて、すぐに高専を出たのだ。七海はあの後、誰かに会って、挨拶でもしたのだろうか。それとも、すぐに帰ったのだろうか。考えてもわからないことにエネルギーを割いても仕方が無いと何度も自分に言い聞かせながら、ぼろぼろの古い小太刀を呪符で巻いた。記録を付け終わると、保管庫のかび臭い空気に耐え切れず息を止めながら外に出る。ぷはぁと大きく息を吐いて、思いっきり吸う。山の中にある高専は空気がおいしいのがいいところだ。目を瞑って何度か深呼吸を繰り返していると、突然、視界が陰ったように感じた。目を開けると、誰かの足が見えた。

「お久しぶりです」

 影の主は言う。七海の声だ。聞き間違えるはずがない。足のほうから頭のほうへ視線を移すと、最後に見た七海よりか少し背が伸びて、やつれた彼の姿があった。

 ああ。再びこの世界で出会ってしまった。

「……おかえり、で、いいのかな」
「よかった。忘れられてしまったかと」

 視線を下のほうに落としながら七海は言う。ばつが悪いのだろう。声がくぐもっている。

「覚えてるよ。同級生、少なかったし」
「それもそうですね」

 緊張がとけたのか、わずかに漏れた息が笑い声のように聞こえた。七海は最初こそ緊張感を漂わせていたけれど、その後は「ではまたよろしくお願いします」とか言って深々と会釈をした。私も私で「またよろしく」と言って頭を下げた。もっと感動的な旧友との再会を想像していた私は、ぽかんとした馬鹿っぽい顔でその場に立ち尽くしていた。あまりにも呆気なさすぎる。

 なるほど七海さん。出戻り後の関係はビジネスでいきましょう、というわけですね。冷たそうに見えて本当は情に厚い奴だと思っていたけれど、どうやら私の見込み違いだったらしい。心底冷たい男だ。喜びも苦しみも分かち合い、少なくとも友人であると思っていたのは私だけだった。これからは艱難辛苦を共にしたたった三人の同級生としての私ではなく、同僚モブ呪術師Aとして関わらせていただきます。



***



 それから私たちはいくつかの任務を共にしたこともあったし、共にしないこともあった。そもそも昔から七海はしっかりしていたから監視も助言も特にすることなく、ごく当たり前のように呪術師として復帰を遂げた。相変わらず会話は事務的なことばかりだが、それがかえって気を使わなくてよかった。昔からくすぶっていた恋心を捨て、良き同僚として振舞う。この方が苦しまなくていい。七海の隣を歩きたいという思いは物理的には叶ったし、会いたい、話したいという願いも、呪いを祓うという共通の目的を通して達成したのだから。七海ほうも特になんとも思っていなさそうだ。仕事中は顔色一つ変えず、終わったらさっさと帰ってしまう。つるの無い変わった形のサングラスから覗く美しい瞳は、書類と呪いしか見ていない。その目に私を映すことはもう無いんだろう。悲しいような、ほっとしたような、複雑な気持ちで七海の背中を見る。祓った呪いの残骸が無いか入念に確認して、直帰の連絡を補助監督に入れ、すぐさま帰路につく。彼がいまどこに住んでいて、帰ったら何をしているのか。私は七海のことを何も知らないけれど、これでよかったんだと思う。



***



「貴女が好きです」
「はい?」

 地方にありがちな古びた保養所に出る呪霊を祓除したのが数十分前。現場の最終確認をして帳から出ようとしたとき、七海が私の裏腿あたりに向かって「アナタガスキデス」と言った。好きだというのは、好意があるという意味だ。唐突な告白にうまく対応できず、ヤンキーがイチャモンを付けるときのような角度と顔で振り返って七海を睨みつけてしまった。一瞬かち合った視線はすぐに外され、七海は森の木の葉か枝を見ていた。しばらく二言目はなく、無言の時間が過ぎていく。七海の不可解な言動が理解できず、自分の眉間に皺が寄っているのがわかる。本来ならこれは七海の特技のはずだ。一応、もう一度確認してみよう。

「……なんて?」

 自分でもわかるくらい、苛立ちを孕んだ声だった。

 それから冒頭へ戻る。七海建人は私のことが好きだと言う。今の今まで、そんな態度は一度も見せたことが無いのに、よくそんなことが言えるなと思う。ふつふつと沸き上がるこの感情は苛立ちだ。こっちは長い間片思いをしていて、もう会うことも無いから忘れたいのに忘れられなくて、声を思い出せなくなったころにいきなり戻ってきたくせに、仕事の付き合いしかなかったじゃないか。今だって好きだという割には私の足に向かって告白しているし、二回目は何を言っているのかさえわからなかった。

「急にそんなこと言われても困る」
「急ではなく、ずっと昔から好きだった」

 それは私だってそうだった。でも七海が閉ざしたから、もう諦めようとしていた。こっちの事情なんておかまいなしに、こんな山奥で、仕事終わりのついでみたいに言わないでよ。

「今更そんなこと言われても困る」
「戻ってからずっと相手にされていないような気がして、言うしかないと思った」

 相手にされていないのは私のほうだ。仮にも同級生。なのにその他大勢のように扱ってきたのは七海じゃないか。会話らしい会話なんてなかった。私より他の人とよく喋っているのだって知っている。学生時代を無かったことみたいにしてきたのは、七海のほうだ。

「今までの全部、なんでもないみたいにされても困る!」
「今までのことがあったから慎重になっていた」

 すれ違う私たちの主張に同調しているのか、辺りが急に暗くなり、空は分厚い雲におおわれ始めた。湿気た空気が流れ込み、ひと雨きそうな気配がする。七海なんて、びしょ濡れになってしまえ。そんなことを考えてしまうくらい、私の頭の中にも暗雲立ち込めている。

 雨は嫌いじゃない。雨音にすべてがかき消され、余計な音が聞こえないから。湿った土や木の匂いが落ち着くから。逃げるに逃げられない状況を変えてくれるから。泣いていてもわからないから。

「雨だよ。帰ろう」
「貴女の気持ちを聞いていない」

 私の気持ちは決まっている。七海のことがずっと昔から好きで、諦めきれない。伝えたらこの関係はどうなるのだろう。職場の同僚。元同級生。同い年。同じ釜の飯を食った友。どの関係性もそれなりに安定していて、捨てがたい。戻って来た七海に再び焦がれてはいけないと自分自身に何度も言い聞かせて、なんとか納得しようと努力してきたけれど、七海のせいで全部台無しになってしまった。こっちの気持ちなんてお構いなし。滅茶苦茶なやり方で好きだと一方的に告げてくる七海に腹が立っている。それなのに、腹の奥底から湧き上がる歓喜をこれ以上抑えることができないでいた。七海に好きだと言われて舞い上がっている。相反する感情が身体のなかをぐるぐる巡り、全身が燃え盛るように熱い。七海と手を繋いだり、デートしたり、キスやセックスだって、何度も夢想してきた。これまでは夢の中でしか聞けなかった言葉を、いま、現実の七海建人が発している。

 雨は徐々に強く降り出し、木々の合間をぬって私の頬を濡らす。この液体はなんなのか。もはや自分でも泣いているのか雨なのかわからなくなっていた。このまま情動に身を任せ、言ってしまおうか。

「……私も七海が好き、って言ったらどうする?」
「すごく嬉しい。衝動的に抱きしめると思います」

 七海の声が震えている。今振り返ったら、どんな表情をしているだろう。私みたいに泣きそうになりながら、緩む口元を必死で押さえているんだと思う。覚悟しろ。言ってやる。

「七海が好き」

 安堵のため息が早いか、七海がぶつかってくるのが早いか。先ほどの宣言通り、私は七海に抱きしめられていた。想像よりも広くて逞しい胸だった。昔見たときよりごつごつしていて、力強い腕だ。だめだ。嬉しい気持ちが溢れてきてどうしようもない。雨降りの森が煌めいて見える。気持ちが昂るあまり、呼吸の仕方がわからない。

「もう一度、私の目を見て言ってください」

 七海の拘束が弱まり、肩を持たれてぐるりと回転させられたら、目の前には困ったような眉をして、ふにゃふにゃの口になった、真っ赤な顔の七海が居た。今は七海の気持ちがわかる。私と同じだから。

「七海のことがずっと前から好きでした」

 七海は静かに頷いて、今度は正面から私を抱き寄せた。廃墟帰りで埃っぽいはずなのに、七海からは心安らぐ香草みたいな匂いがした。何か言えばいいのにと思ったけれど、私も何も言えなかった。ただ、気持ちが通じ合っていたという事実が確かにここに在り、二人の存在の輪郭をはっきりと描いていることが嬉しかった。もう一人じゃない。七海と一緒に生きていけるんだ。

 雨が止む気配はなく、ぽつぽつ降り注ぐ雨粒が草木に当たって優しい音を奏でている。すっかり濡れてしまった私の髪を七海が愛おしそうに撫でた。あんまり優しい手つきだから、それだけで心底愛されていることがわかってしまい、その瞬間から私も七海のすべてを愛すると誓った。