「疲れた……」
目の下に濃い隈を作って机に突っ伏した恋人を見て七海は自業自得だと思ったが口に出すのはやめておいた。
「眠い……」
彼女は何か言いたげに七海の方をチラリと伺いつつ嫌そうに体を起こして再びパソコンに向かい始める。ぽちぽちと覇気なくキーボードを押し、書いては消してを繰り返す。この調子ではしばらく終わりそうにないと思い、七海はカップ式自動販売機でコーヒーを買ってきてやることにした。席を立つと七海の背中に向かって彼女が声をかける。
「お腹すいた……」
一応視線を送って聞いたぞとポーズをとり廊下へ出た。もう二十一時を回っており高専内はほぼ消灯されていて残っているのは伊地知と七海と彼女だけだ。しんと静まり返った廊下を進み突き当りの自販機でブレンドコーヒーを二つ買った。このマシンは一応豆から挽くタイプなのでそこそこマシな味をしており七海は気に入っていた。
彼女が一人残された会議室へと戻ると先ほど同様項垂れているだけで報告書は一行追記されただけだった。七海は大きなため息をそれはそれはわざとらしく吐いて彼女へコーヒーを手渡した。お礼の一言もなく受け取ると拗ねたように唇を突き出して七海の方へじっとりとした視線を投げる。
「お風呂入りたい……」
彼女はとにかく構って欲しいらしい。このまま粘って根負けした七海の「手伝います」を期待しているし、あわよくば替わりに書いて貰おうとさえしている事が手に取るようにわかったので返事はしないで彼女の不満げな瞳をじっと見つめ返してやった。
「ねえ聞いてる?」
「無駄口叩いてないでさっさと終わらせてください。ずっと待ってる」
彼女の隣の椅子にドカッと音を立てて座った七海は報告書の中身を覗いた。一応、昔よりはるかにそれらしく書かけている。学生の頃と違って社会的なスキルも身に着けたのだろうと妙に感心したものの、このスピードでは今日中に終わりそうに無い。思いの外出来がいい報告書を見て七海は驚いたが、ここで褒めるべきか突き放すべきか一瞬悩んだ。やはり「よくできている」と言ってその気にさせ早く終わらせようと口を開きかけた時、彼女が何やら言い訳を始める。
「だって書いても書いても終わらないんだもん」
「なぜ報告書一枚にそこまで時間がかかるんですか。理解できない」
「だって呪霊も一般人もいっぱい居たし書くことが多すぎるから」
「事実だけを書けばいいんです」
「だって疲れすぎて頭が働かないの」
疲れた眠い腹が減った風呂に入りたい……。先ほど彼女が言っていた事と今の言い訳で七海の中で何かが切れる音がした。盛大に溜息を吐いて彼女の方へ向き直ると彼女は一瞬怯んだ様子を見せたが、七海は腕を組み彼女をじっと見つめた。不測の事態が起こって対処に手間取り残業になったことは仕方がない。しかし報告書を数日放置した挙句、締め切り時間を過ぎてから「今日中にはできないかもしれない」などと言い出す社会人が存在するだろうか。
「先ほどから“だって”ばかりで有効な解決策が何一つ出てこない。それにホワイトデーは期待しておけと宣言して人を呼びつけ、こんな時間まで待たせておきながらこれは一体どういうことでしょう。大体アナタ昔から――」
「今はそういうのはいいの! 愛する恋人が疲れ切ってるんだから優しくしてよ!」
言葉を遮って椅子に座ったまま四肢を投げ出し天を仰いで不貞腐れるその姿を見て、七海は再び大きな溜息を吐いた。そもそも学生時代から行われてきたこの詰問に慣れているのだろう。何も響いていなさそうな態度だった。
「いい大人が言う台詞では無いですね。そもそも今日の事は自業自得では」
「七海って冷たい。もう一人でやる」
「報告書なんか最初から一人でやる事でしょうが。私はずっと横で待たされているだけなのに」
「うわーん! もういい!」
彼女が拗ねてわざとらしくパソコンに伏せると、キーボードが押さえられ画面には意味不明の文字列がダラダラと入力され続けた。なんとかやる気を出させて二人で過ごす時間を作るしかないと七海はお説教を諦めることにした。そっと彼女の肩に手を置いて額を彼女の後頭部にくっつける。整髪料と汗の匂いがした。それから髪を撫でながら耳元で囁く。
「ハア。さっさと終わらせてアナタとイイコトがしたいのに」
「イイコトって何?」
「終わってからのお楽しみです。さあ早く。あと三十分がリミットです」
信じられないがその後、彼女は二十分足らずで報告書を書き上げたのだ。全く現金なものである。最初からそうしてくれと七海は思ったが、疲労や空腹で少しばかりへそを曲げていたのだろうと折れてやることにした。そう、七海は大人なのでそうすることができたのだ。本当は今すぐ連れて帰って甘やかしてやりたかったしそのままアレコレしたかったのに、大人の力で耐え抜いたのだ。そんな七海の葛藤を誰も知らないし誰も褒めてはくれないが。
彼女はやればできるんだとウキウキしながら事務所へ報告書を提出すると、半泣きの伊地知が「やっと帰れます……」と呟いた。彼が報告書待ちであった事を知った七海に睨まれた彼女は逃げようとしたが即座に捕まり、頭を押さえられ深々と謝罪し伊地知に食事を奢る約束をした。そんな二人の様子を見て恐縮しながら「お陰様で溜まっていた事務処理が片付きました」と言っていたが、また七海のお説教が始まると思い彼女は伊地知の後ろへさっと隠れた。またすぐに捕まってそのまま連れていかれてしまう。伊地知は旧知の先輩カップルが仲睦まじくじゃれ合う様子を微笑ましく思うと同時に「七海さんって結構振り回されるタイプだよな……」とも思った。
外に出ると周囲は真っ暗になっていた。学生寮の部屋に灯りが灯っているのを見て二人は懐かしさを覚える。あんな時代が自分たちにもあったねと彼女は言ったが七海から帰って来たのは生返事だった。何か別の事を考えていたのだろう。
駐車場に着き助手席に座ったが目的地を教えてくれず、しばらく押し問答を続けているうちにとあるスーパー銭湯へとたどり着く。車を降りながら彼女は言う。
「ねえ思ってたのと違う」
「何を想像してたんですか?」
少し意地悪に笑いながら七海が告げると彼女もニヤリと笑って七海の両手をとってぶんぶんと左右に振り喜んだ。
「けど最高! お風呂も入れるしご飯も食べられるもんね!」
「アナタの切り替えの早さは称賛に値します」
「岩盤浴にも行こう!」
「空腹で行って倒れませんか?」
「ソフトクリーム食べてから行くんだよ。七海も食べる?」
「楽しそうでよかったですよ、まったく……」
七海はやれやれと頭を抱えながら車のドアがロックされているのを確認した。
「私って安上がりな女なのかな」
「エコでいいんじゃないですか」
「何それ適当。まあいいや。じゃあ着替えてからソフト食べて待ってるね!」
彼女は券売機で二人分のチケットを購入して七海に渡した。それから一直線にカフェコーナーへ行きソフトクリームを二つ頼んだ。七海は先に着替えるんじゃなかったのかと思ったが自分の分をさっそく舐めながら嬉しそうにミックスソフトを差し出すその姿を見て、可愛い好き今すぐ抱きしめたいと煩悩の塊と化したのだった。