(この任務まだ長引くな……)
今日彼女は午前八時から二年生一名の引率として共に任務に当たっている。我々がここ一週間ほど追っている一級呪霊の追跡に手間取っていた。残穢は残っているが、途中で途切れたり完全に消失していたり、なかなか尻尾を出さない。あてもなくさ迷っているわけではなさそうだが、どうも法則性が見えてこないのだ。それとも決まったルートやパターンなど無くて、不規則な動きをしているのだろうか。先程から考えは堂々巡りである。
(どう考えても保育園のお迎えに間に合わない……)
呪霊も気になるが約束の時間である十八時が目前に迫っていた。今すぐに帰宅準備をしても無理がある。ちらりと隣の二年生を見ると真剣に残穢を見つめていた。周囲に気を配り、次の出没先の目星をつけようとしている。真面目な学生である。呪霊の気配はない。今なら話しかけても大丈夫そうだ。
「今日はもう切り上げよう。朝からずっとだったから疲れたでしょう」
生徒は目を丸くして、信じられないとでも言うように三度瞬きをした。なんでも出現から消失までの間隔が徐々に短くなってきており、日没後に行動パターンが変わるかもしれないと言うのだ。まったくよくできる生徒である。しかし、このままでは大変マズい。日没後も残業していたらお迎えに間に合わない……。
「ちょっと一件、連絡だけ入れさせて」
出来のよい生徒は聞き分けもよかった。何か事情があるのだろうと考えたのか、持ち場を離れることを了承してくれた。今日のお迎え当番は彼女だったが、こうなったら七海に頼むしかない。七海も朝から別件で追跡調査の予定だった。彼女より早く家を出たのでもう終わっているたろう。
スマートフォンを見ると、既に七海から『今終わりました』とメッセージが入っている。すぐに電話をかける。
「終わった?」
『先程終わって今、お迎えに向かっているところです。そちらは?』
ありがとうございます。デキる夫である。
「私はまだ終わりそうにない。何時に帰れるかわからないって感じ」
『そこそこで切り上げてくださいよ。学生もいるんでしょう。あまり無理をさせないように』
後輩想いの七海らしい発言に思わず吹き出してしまう。何笑ってるんですか、と七海が呟く。きっとムスッと薄い唇を尖らせているだろう。想像に容易い。
「フフ、わかってる。真面目な子でさ……」
『知ってます。とにかくこちらは適当にやっておくので、帰れそうになったら連絡を』
了解、と呟いたが既に通話は切れていた。
持つべきものは頼れる七海建人である。心配事の段取りはついた。ここはありがたく七海に任せるとしよう。気合いを入れ直すために両手で頬を叩くと、学生のもとへ向かった。
現場へ引き返すと学生と補助監督が並んでいた。やはり呪霊の行動パターンは前日と大きく変わらなかったそうだ。日を改めて明日の午後から仕切り直すことになった。現場付近に住む"窓"へ本日の状況を連絡し、何かあれば彼女に連絡するよう手配された。いわゆるオンコール対応である。うちからここまで自転車を飛ばせば十五分ほの距離だった。自宅付近を徘徊する呪霊が気になるところではあるが、今何か行動を起こしそうなわけではないので良しとする。
学生は補助監督が車で高専へ送って行くらしい。彼女は二人に別れを告げ、駅前の自転車置き場へ走る。家に帰ってからが本番なのだ。
そろそろ彼は家に着いただろうか。ご飯、お風呂、絵本、寝かしつけ、明日の保育園の準備もあるし、家に帰ってからも仕事が山積みだ。子どもは無条件にかわいい。しかし、乳幼児三人の相手は一級呪霊より骨が折れる。七海も今ではよくやってくれる方だが、さすがに三対一では分が悪い。
『今から帰ります』
一言だけメッセージを入れ、帰路に着いた。
「ただいま」
ドアを開けると早速賑やかな声が聞こえる。どうやらブロックの取り合いで揉めているらしい。
「いいかげんにやめなさい。お母さんが帰ってきましたよ」
七海が子どもたちに声をかけると、泣き声はピタリと止まってバタバタと大きな足音が二人分。ペタペタとヨチヨチ歩きの音も聞こえる。
「「おかあさん! おかえりー!」」
満面の笑みで出迎えてくれた。争いは一時中断のようだ。子ども達の笑顔で心は癒される。しかし、気を緩めてはいけない。
ここから戦いの第二幕が始まる。
「ただいま。どんな感じ?」
キッチンの七海に声をかける。先日訪れた輸入食品店で子ども達が欲しがった、あの恐竜のマカロニを茹でていた。
「おかえりなさい。怪我は?」
「あるわけないよ、調査だけなのに。さっそく恐竜マカロニ解禁?」
「子ども達がどうしてもと言うので……。君ね、舐めてるとまた泣きながら家入さんのところへ行く羽目になりますよ」
七海はため息を吐きながら、塩もみしたキュウリの水切りをした。キッチンタイマーが鳴り、マカロニが茹で上がったようだ。慣れた手つきで湯切りする。その隙にくたっとしたキュウリをつまみ食いすると、「行儀が悪い」と睨まれた。
「もう少しかかりますから、子ども達を風呂へ入れてくれませんか」
そういうと七海は、ほかほかと湯気をあげるマカロニとキュウリ、細切りにした人参をマヨネーズで和え始めた。マカロニサラダの味見をしたかったが、手を伸ばすと「こら」と言われガラスボウルごと抱えられて未遂に終わった。
三人の乳幼児を風呂に入れるのはかなりの重労働である。まず服を脱ぐところから時間がかかる。必殺の「誰がお洋服脱ぐの一番早いかな」で今日は五分とかからず全員裸になることができたが、この作戦が明日も有効とは限らない。そして自分も洗いつつ全員の頭と身体を洗う、これが最も難易度が高い。誰から洗うかでまず一悶着あり、シャンプーした頭で「チョンマゲ」「クワガタムシ」などと一通り遊び、ここまで約二十分。ボディタオルで石鹸を泡立て、子ども達を丸洗いし、シャワーで流す。合間で自分も素早く洗う。四人全員が湯船に入るとさすがに狭いが、楽しそうに魚のおもちゃを泳がせて遊んでいる。
「もうあがる! おとうさんよぶボタンおす!」
真ん中の子どもが背伸びをしながら呼び出しボタンを押す。しばらくすると七海がバスルームにバスタオルを広げながら現れた。
「さあ、誰からですか」
優しく微笑みながらそういうと、三人全員が「はい!」と元気よく手を挙げた。その勢いに七海は思わず吹き出して、大きな口を開けて笑っている。彼女は我先にと焦る子ども達を下から順に湯船からあげ、シャワーをかける。もう一度バスルームのドアを開けると三人とも一斉に出ていき、一枚のバスタオルの中で団子になった。
裸で走り回る子ども達を追いかけパジャマに着替えさせると、食卓には夕食の用意ができていた。マカロニサラダ、ハンバーグ、コンソメスープ。いい匂いだ。待ちきれない様子の子ども達を座らせる。この瞬間だけ見れば微笑ましい家族の食事風景なのだろうが、乳幼児三人の食事の世話は戦いそのものである。
「ウロウロしない! 座って!」
「にんじんも食べなさい」
「食べながらお喋りするのバツだよ!」
「ごちそうさまするまでおもちゃは無しですよ」
子ども達を食べさせながら自分も食べつつ、食べこぼしがないか注意を払いつつ……。なんとか食べ終えたら、自分の食器は自分で運ぶと言い張る子ども達を見守り、キッチンまで付き添う。呪霊討伐任務並に精神力が削られる。
七海が入浴している間に洗濯機をまわし、明日の保育園の準備をして、ブロック遊びに付き合う。そろそろ子ども達を寝かせる時間になったので、それぞれに一冊ずつ絵本を選んでくるように伝えた。
「おとうさん、おやすみなさい」
足にくっついた子ども達を七海は抱きかかえ頬擦りをして、抱きしめた。三人ともギュウギュウにくっついて離れがたそうにしている。七海にそのまま布団の上に連れていかれ、そっと降ろされた。
「お腹が冷えるからスボンをしっかりあげて。おやすみなさい」
子ども達がパジャマのズボンをぐっと上げると七海は頷き、静かに襖を閉めた。約束通り一人一冊絵本を読み、消灯した。
ドタバタと子ども達の世話を終え、ようやく三人とも眠った。寝ている時は天使だ。大中小の三人が並ぶ布団とぷくぷくに膨らんだ頬、そして半開きの口。お風呂上がりのいい匂い。一気に幸せが込み上げてくる。いつもはそのまま寝落ちしてしまうのだが、オンコールの日は別室で休むことにしている。夜中に呼び出された時、子どもや七海を起こさないためだ。
寝室の襖をそっと閉めてリビングへ向かうと、七海がフライパンを洗い終えたところだった。ソファに横になる。目を閉じればこのまま眠ってしまいそうだった。
「はー。なーんか今日疲れたなー。身体はだるいし、ずっと眠いし、足はむくむし。でも食欲だけはいつも以上にあるんだよねー」
二の腕を揉みながら「太ったかな」と聞くと、キッチンから出てきた七海は訝しげな表情をしている。ゆっくりと歩きながら、彼女の足元へと腰掛けた。そしてふくらはぎを優しくマッサージしながら、こう呟いた。
「……君、また妊娠してるんじゃないでしょうね」
はあ? ニンシン? 四人目?
「ンなわけない。だってまだ一番下に、たまにだけどおっぱいあげてるのに。産後、生理もきてないよ」
それはないだろうと首を横に降ると、七海は怪訝な顔で続ける。
「三人目の時も全く同じ事を言ってました」
「そうだっけ」
そんなこといちいち覚えていない。子どもを産んでからとにかく日々のタスクをこなす事で精一杯だ。毎日疲労困憊である。今日は特に疲れたが、いつも慢性的にしんどい。寝ても寝ても寝足りないし、夜泣きもたまにあるし、任務もあるし、家のことも……。子どもがいるってこんなに大変だとは思っていなかった。子育てがこんなに体力勝負だなんて知らなかった。のそのそと身体を起こし、七海の方を向く。すると七海は座りなおし、目をそらすかのように前を向いた。
「早く調べた方がいい。本当に妊娠していたら負担が大きいのは君です」
「わかったけどさ、"また"って何?勝手にできるわけじゃないんだから。そっちこそ三人目の時と同じことしてるでしょ」
七海は黙り込んで下を向いている。
「誤解を招く言い方については謝ります。子どもが増えることは喜ばしいし、ここまできたら三人も四人も同じです。ただ、」
七海がこちらへ向き直り、言い淀む。彼女の肩に顔を埋めて深く息を吸った。七海の大きな手が彼女の背中にまわり、ぎゅっと力をこめる。そのまま七海の膝の上に招かれれ、彼にまたがり向かい合わせになった。七海が胸に顔をくっつけて深呼吸する。彼女を抱く腕にさらに力が入った。応えるように彼女も七海を抱きしめる。暖かい。
「君の身体が心配なんです」
子ども達が寝て静まり返った部屋に、七海の呼吸音と心音が響くようだった。そのままの姿勢でぽつりぽつりと話しだす。
「無理をしてほしくない」
困ったような声で言う。
「君も子ども達も大切なので」
七海が顔を上げる。眉尻を下げ、口角は微かに上がっている。
「わかってるよ」
彼女はさらさらのブロンドを撫でながら、額にキスをした。すると七海はそっと首筋に唇を落とす。生暖かく厚い指が鎖骨をなぞり、わざとらしくリップ音をたてながら徐々に唇へと登っていく。その大きな手のひらで頬を包むと、唇と唇が優しく触れ合った。彼女が目を閉じて身を委ねる。それが合図となり、二人は深く口づけた。荒い息づかいと唾液の混じり合う音。聴覚からも刺激され、もう止まれそうにない。苦しくて口を離し肩で息をしていると、七海の赤い舌先がいやらしく光っていた。
もぞもぞと七海の上に乗り腰を揺らしていると、彼の下半身に熱を感じた。
「……硬いのがあたる」
「生理的な反応です。……許してください」
言葉とは裏腹に、七海の手が彼女の柔らかい胸を包んだ。手のひらでふわふわと感触を楽しむように触っている。逃すまいと必死にお互いの舌を絡め合う。息をするのもままならない彼女を七海は愛おしく思い、夢中になってその唇を貪った。七海がうっすら目を開けると、目を瞑ったままの彼女から涙が一粒こぼれ落ちた。いつも彼女はキスをしていると涙を流す。七海しか知らない秘密だった。
いよいよ服を脱ごうかというその時、オンコール用のスマートフォンの着信音が鳴る。
一瞬にして二人の動きが止まり、顔を見合わせる。火照った熱を沈めるには十分なその音を三回繰り返した時、彼女がしぶしぶ音のなる方へ手を伸ばした。七海はそれを静止して取り上げ、通話ボタンを押す。七海は通話しながらリビングを出た。彼女は決まり悪くソファに座ったまま取り残された。
「ちょっと出てきます」
通話を終えた七海が戻るなり言った。既に着替えも終わっている。
「今日のオンコールは私!」
「妊婦をこんな夜更けに出歩かせるわけにはいかない」
「まだわかんないって」
「後でそうだったとわかった時、後悔したくないんです。現場確認だけなのですぐ戻ります」
有無を言わせないと七海の瞳が語っている。こうなるとこちらが何を言っても無駄なので、大人しく七海の言う通りにすることにした。
靴べらを戻し、財布・鍵・電話の確認が終わった。
「……行ってらっしゃい」
「行ってきます。続きは後日にしましょう。愛してる」
耳元で優しく囁くと、ドアを開けて出ていった。足音が遠ざかる。
中途半端に火をつけられた身体がくすぶっている。今夜は眠れそうにない。