七海とは、灰原が死んでからずっとくっついたり離れたりを繰り返してきた。寂しさを埋めるように身体から始まって、お互い情がわいたんだと思う。七海がやめた時完全に切れたと思ったけれど、七海から連絡があったり、私から会いたいと言ったり、結局なんだかんだ理由をつけてはたまに会っていた。出戻ることは聞いてなかった。何度目かの別れ話のあと、半年以上連絡がなかったのに突然高専で会って、やっぱり私のことが好きなんだとか言われて、また付き合い始めた。
でも私たちは、根本的に合わないのかもしれない。だって会えば口論になるし、やることはセックスが主だ。喧嘩が絶えないからもう疲れた。私のことが好きだというわりには、テレビドラマや漫画で観るみたいに優しくされたことはない。やることなすこと口を挟まれて、何だか自分を否定されているみたい。七海の言う通りになんて生きていけない。いつもと同じ台詞で切り出した別れ話を七海はまたかと言って、今日も聞いてくれなかった。鞄を掴んで七海の家を出て角のコンビニを曲がったとき、上着を忘れたことに気づいたけれど取りには戻らなかった。もう二度と、七海の顔なんてみたくなかったから。
腐れ縁のようなもので繋がっている恋人がいる。我儘で気分屋、寂しがりのくせに意地っ張りな彼女を心から愛している。約束を守らなかったり、すぐに悪態をついたりするのは私にだけで、それは気を許しているからだと思いたい。だから何を言われても、何をされても許してきた。時間が経てばいつも通り、なんでもなかったかのように彼女は私の元に帰ってくる。それだけでよかった。彼女が彼女らしくいてくれさえすれば。
彼女はすぐに別れ話をしたがる。気を引きたいのか、止めて欲しいのか、今となってはもうわからない。いつもの調子で飛び出していった彼女を引き止めなかったのは、これまで通りの癇癪だと思ったからだ。しばらくしたらフラフラ戻ってくると思っていたのに、未だに彼女が戻る気配は無い。また揺さぶろうとしているんだろう。愛を確かめるようなことはもう終わりにしないか。こんなこと無意味だ。君と私は離れることができない。そうだろう。
七海と彼女が別れてはくっついてを繰り返していることは、高専内では有名だった。誰もがいつものことだと流していて、特段二人を気遣う者はいない。半同棲している七海のマンションを飛び出した彼女が行くところは家入の元がほとんどで、あまり飲めない酒をちびちび飲みながら家入に愚痴り、五条に絡み、伊地知に泣きつく。それからしばらくしたらいつの間にか立ち去り、知らない間によりを戻している。喧嘩の内容はいつだってくだらないものだった。洗濯物が裏返しだとかベッドに入る前にシャワーを浴びろだとかの細かいことから、任務でのちょっとしたケアレスミスなんかを七海に指摘された彼女が不機嫌になる。七海もそこで追求しなければいいのに問い詰めるものだから、逃げ場を無くした彼女が爆発してしまう。それさえなければ、二人は本当に似合いのカップルなのだが――。
彼女が出ていって一ヶ月。今回は相当へそを曲げているらしい。まだ戻らない彼女のことを七海はずっと待ち続けていた。いつ帰ってきてもいいように食事は毎日二人分用意している。彼女が好きな香りのバスソルトを買い足し、寝具も清潔に保ち、週末にはいつものパティスリーでケーキを買って帰る。もう何度繰り返しただろう。スマートフォンのメッセージアプリを開いても連絡は無く、電話の一本さえ無い。どこで何をしているのか全く足取りがつかめず途方に暮れる毎日だ。そんな七海の脳裏に彼女の笑顔が浮かんでは消える。七海の大腿に乗っかり、硬い金色の髪を手で梳きながら首元に顔を埋めて甘えてくる。そんないつもの彼女を夢想しながら今夜もひとり、眠りについた。焦りが無いといえば嘘になるが、もうそろそろ根を上げるころだろうとも考えながら。
それからまた一ヶ月。連絡は無い上に風の噂で恋人が出来たと聞く。補助監督の噂話から推察するに、相手は非術師の一般人らしい。仕事終わりで待ち合わせ場所付近に送っていったときに見た横顔は、爽やか系イケメンかつ誠実そうで、二人仲良く手を繋いで夜の街に消えていったという。どうやら話の続きがありそうだったが、七海の存在に気づいた二人は気まずそうな顔をして立ち去ってしまった。そんな顔をされて避けられると、なぜだか惨めな気持ちになってくる。しかし七海は思った。――どうせすぐ別れる。彼女に付き合ってやれるのは自分くらいだろう。
相変わらず沈黙しているスマートフォンを眺めてみる。うんともすんとも言わない。以前はしょっちゅう連絡があった。彼女からきた最後のメッセージは「明日は先に出るね」だった。
それから三ヶ月。七海の予想に反して彼女と新恋人は上手くいっているようだった。噂話はもちろん、高専内で久しぶりに会った彼女から直接聞いたのだ。無視されると思ったのに、七海を見つけた彼女は手を振りながら近づいてきた。それから突然飛び出してごめんと謝り、聞いてるかもしれないけど、と前置きをして、恋人ができたんだと柔らかい微笑みを浮かべて七海に告げた。頬は赤く染まり、視線を左右に泳がせている姿を見て、七海は胸の奥がズキズキと傷んだ。心臓を締め付けられているような苦しさがあるのに、口ではおめでとうございます、だなんて物分り良さげな言葉を吐く自分の性を恨む。それを聞いた彼女はほっと表情を緩ませて、もう一度七海に謝った。そして今までありがとうと言って、背を向けたのだった。
耳に入ってくる彼女と恋人の話を聞きながら七海は味の無いコーヒーを啜った。貯まりに貯まった有休を消化するという名目で二週間の長期休暇を取るらしい。なんでも恋人と海外旅行に行くそうで、皆口々に羨ましがった。右手の薬指にシンプルなデザインの指輪をはめた彼女が旅行ガイドを見ながら補助監督と話しこんでいる。七海を見つけていつものように挨拶をして、英語が喋れないから翻訳アプリを使うんだと、どうでもいい情報を教えてくれた。
「七海は喋れるもんね」
「そこまで得意というわけではありません」
傍から見ると元恋人には見えないであろう同僚としての適切な距離を心がけて返事をする。大丈夫だ。間違っていない。それに、七海にも恋人ができた。非術師の一般人で彼女とは正反対の性格だ。それなりに上手くいっていると七海は思っている。クアラルンプールのガイドブックを横目に、七海は自分にも恋人ができたと彼女に告げた。少々驚いた表情の後、ぱっと明るい笑顔に変わっておめでとうと祝福してくれ、さらには上手くいくよう祈ってくれるという。どんな人なのかとか、どこで出会ったのかとか色々と聞かれたが、七海は適当にはぐらかして明確な返事をしなかった。これから会う約束をしているとだけ言って、彼女へ背中を向けた。今、彼女はどんな顔をしているのだろう。
また時が経ち、もう誰も七海と彼女のことを気にかけなくなった。どちらもお互いの恋人とはそれなりに上手くやっていた。定例会議やたまに任務で会うことはあれど、かつてのような親密さも別れた直後のようなぎこちなさも無い。このまま時が過ぎて、二人で過ごした時間は過去のことになるのだろう。裏返しに脱がれた靴下に腹を立てたことも、ホラー映画を怖がってしばらくトイレまでついていったことも、泥まみれになりながら呪霊を追いかけた日々も、二人きりのときの甘えた声も、このまま全部次の恋人に上書きされていくのだろう。この世の中の見知らぬ人々もきっとそうして生きている。いつまでも過去に囚われて引き摺られていても仕方がない。今を生きて、今を楽しむ。それが普通の幸せというものなのだから。
美味しい料理と少しのアルコールは人を楽しい気分にさせる。店を出たときには二十一時を回っていて、夜の街はまだまだこれからだと言わんばかりに活気に満ち溢れていた。恋人と手を組み、駅へと向かう。改札で別れの挨拶をしようと彼女が振り返ったとき、恋人越しに元恋人の姿が見えた。華奢で落ち着いた雰囲気の女性と腕を組んでいる。七海と彼女の視線がぶつかると、目の前に火花が散ったような気がした。途端に都会の雑踏が遠のいていく。かつての恋人は今や見知らぬ異性と知らない人生を歩んでいるらしい。わかってはいた。でもこうして現実を目の当たりにすると、自分たちがかつては恋人同士であったことを嫌でも思い出してしまう。彼女の現恋人が不思議そうな顔をしはじめたのでなんとかしなければという気持ちはあるが、駅のタイルから動けない。七海の現恋人が不安そうな顔をして彼を見上げた。七海はそれに気づかず彼女を見つめたまま微動だにしない。このまま、何事も無かったかのように立ち去るべきだとはわかっている。でも、足がすくんでしまって動けない。
彼女の恋人が行こうと引いた手を咄嗟に振り払ってしまった自分に驚きを隠せない。それを見て七海の恋人は組んだ腕にしがみついた。しかし七海が一歩前へ出ると、観念したように絡んだ腕がするりと解かれた。金曜日の夜の帰宅ラッシュのなか、七海の革靴の音がやけに響いて聞こえてくる。次第に歩幅が早くなり、二人の距離が縮まっていく。目の前に七海の顔が来たと思った瞬間、肋骨が折れそうなくらい強く抱きしめられた。
「どこでなにしてた」
「七海が、悪い」
「そうです。全部私が悪い」
「違う。嘘。私のせい」
「そんなこと、どうでもいい」
足がぶらりと宙に浮き、肺が軋んで上手く呼吸ができずに彼女の喉から喘ぎが漏れる。それでも七海の力が緩むことは無かった。痛いと言っても放してくれない。
「もう七海と別れたくない」
「一度も了承した覚えは無い」
ようやく降ろされたとき、ここが駅の構内であることを思い出した。お互いの恋人たちが居心地が悪そうにしているのを見た二人は、心底申し訳ない気持ちになった。誠心誠意の謝罪をしたら、どちらもわかってくれた。元来、いい人たちだった。さようならを告げると人混みにまぎれてすぐに見えなくなってしまった。もう二度と会うことは無いだろう。
駅の真ん中で抱き合っていても誰も何も言わないのが都会のいいところだ。行き交う人々の流れに乗って、七海と彼女は二人で歩き出した。手を繋いだとき、七海の指に硬いものが触れた。彼女の右手の薬指からすぐにそれを引っこ抜いて、ポケットに仕舞う。二人でいることがしっくりくるわけではない。またきっと、些細なことで行き違うだろう。それでも離れられないのは、根っこのところが複雑に絡んでいるからだと思う。誰がどうやってもほどけないそれを、無理に解す必要はない。もう覚悟は決まったのだから。