今日は最低最悪の日だった。小物相手が続いたと思って気が緩んだところに実力以上の呪霊が現れ、かつてないくらいボコボコにされた。左肩の関節がはずれたのか骨が折れたのか知らないが、腕が動かせなくなったと思ったらヌルヌルの触手みたいなモノに両足を拘束され、死を覚悟して念仏を唱えようとした時に後輩が飛んできて助けられ、私は、今、なんとか生きている。家入さんの反転術式が施されるまで身体がちぎれそうに痛かったけど痛み止めを通常の三倍ほど飲んでなんとか我慢できた。今日の事が七海に伝わっていないといいけれど。彼はいつも私が怪我をすると自分の時以上に痛そうな顔をする。きっと小言を言いたいんだろうと思うが、それをぐっと飲み込み深呼吸して苦しそうな顔をする。それから「おかえりなさい」というだけで、それ以上追求されたことは無い。その度に私は落ち込むんだ。私が彼を傷つけてしまっているから。
二人で暮らす家に帰ると七海がいて夕食が作られているのだとわかる。これは、卵とバターの匂い。多分オムレツかオムライス。彼は昨夜帰ってこなかった。私が出てしばらくした後に帰ってきて、今日はそのまま休みになったらしい。帰りの車の中で見たスマートフォンにそうメッセージが入っていたのだ。朝出て行った時の服装を見られてなくてよかった。着替えて帰ってきたことがわかったら、彼はきっと何があったか気付いただろうから。
「おかえりなさい」
「ただいま。いい匂い。卵料理でしょ」
「今日はアナタの好きなオムレツです。ケチャップでハートを書くサービスもありますよ」
「えっ! 七海サンのハートって超レア。おいくらですか?」
「特別な人への無料サービスです」
私が笑うと七海も笑った。彼は本当に優しい。私の事をいつも一番に考えてくれるし、自分を犠牲にしてでも持てる全てを与えてくれる。でもいつもなら「今日はどうでしたか」と聞いてくるのに何も言わない。もしかしたら私が怪我した事を知っているのかも。人づてに後で聞くよりかは私が今、直接伝えた方がいいのかもしれない。でもきっとそれを聞いてしまったら彼はまた悲しむのだろう。七海を苦しめたくない。
「国旗の旗も立てて、タコさんソーセージもつけてよ。赤いやつ」
「お子様ランチですか? あの旗が売っているのを見たことが無い」
ふっと漏れた七海の笑い声に胸が切なくなる。やっぱり怪我の事なんて言わなくていい。だってもう治ってる。終わった事だから、どうか知らないままでいて。それよりも、なんでもない、いつもの日々であることを確かめたい。私は今日死を覚悟したがこうして生きている。七海が家にいて料理を作って待っていてくれたという、そんな些細な日常をずっと覚えておきたい。またどこか痛むことがあっても、貴方が待っていてくれると思ったら耐え抜けるから。
夕食を終え別々に風呂に入る。今回の傷跡はきれいさっぱり治っているのだから見られてばれる心配は無かったけど、七海が私に先に風呂へ入れと言ったからだ。入れ替わりで入る七海の背中をふと見ると、新しい擦り傷がたくさんあった。怪我をしたのは七海も同じだと知る。今日も治してもらわなかったらしい。私はそれに気づかない振りをして濡れた髪を拭いていたのに、七海は困ったように笑って言う。
「大した怪我じゃない」
「お湯がしみそう」
「平気です。アナタに比べたら」
なんだ。本当は知ってたんだ。黙っててごめんね七海。きっと私から言うのを待っていたんだろう。言えないよ。悲しむ貴方の顔を見たくないから。
「私はもう治してもらったよ」
「それまで痛みに耐えてたんでしょう」
「その時はそりゃあ、多少は痛かったけど、治ってるから、今は全然平気」
ほら見てよ、と左腕をぐるぐると回してみる。どこも折れてないし腱も切れてない。私の姿を静かに眺めるだけで七海の返事は無かった。眉を寄せて口角を少しだけ上げ、湯気の中に消えていった。ごめんなさいと言いたいけれど、七海が望むのは私が謝ることではないとわかっている。この世界でやっていく以上仕方が無いはずなのに、私が傷つくのを見たくないという葛藤に苦しんでいるのだろう。シャワーの音が聞こえてきた。浴室の中に湯気が立ち込め、七海の姿を隠してしまう。ほんのり見える肌の色が動いている。シャワーが止まり鼻を啜る音が数回続いたと思うと、細く長い溜息が僅かに聞こえた。彼が泣くことはあるのだろうか。そうだとしたら私のせいだ。愛他主義の貴方に私からの愛を与えるにはどうしたらいいのだろう。
髪を乾かしていたらドライヤーを取られて、いつもみたいに七海が髪を乾かしてくれる。大きな手。お風呂上がりでしっとりした指。貴方の全てが心から愛おしいよ。出会えただけで嬉しいのに、恋人同士になれるなんて夢みたいだ。七海にもたれかかってみる。何も言わずに頭にキスされた。髪が乾いたという合図だ。私に無言でドライヤーを渡すと身を屈めた。乾かしてくれということらしい。いつもは自分でするからいいと言うのに珍しい事もあるものだ。もっと貴方の宝物のように美しい髪に触れていたいけど短いからすぐに乾いてしまう。
食洗機に食器を並べ終えた七海はマグカップを二つ取り出した。いつものように何か飲み物を用意してくれるらしい。
「今から七海にして欲しいこと言うね」
「なんですかいきなり」
私の唐突な申し出に不審そうな視線を投げる。その瞳をじっと見つめ返してみると鼻を鳴らして挑戦的に笑った。なんとなく嬉しそうに見える。
「何かほっとする飲み物ください」
「ホットチョコレートかハニーレモン。どちらがいいですか」
「チョコの方はマシュマロ入ってるやつ?」
「アナタが望むならば入れましょう」
「じゃあホットチョコレートのマシュマロ入りお願いします」
「とびきり美味しく作ります。座って待っていて」
七海は機嫌良さそうに肩を弾ませながら二人分のチョコレートを刻んだ。いつも寝る前はウイスキーやホットワインを飲む癖に今日は私に合わせてくれるらしい。鍋で温めたミルクに刻んだチョコレートを入れてかき混ぜると部屋いっぱいに甘い香りが広がって、それだけで少し浮かれた気分にさせる。目の前に置かれた色違いのマグカップにはどちらもマシュマロが浮かんでいた。それもハート型。先日輸入食品店でカゴに入れた時は興味がなさそうにしていたのに、これは世界で一番美味しいホットチョコレートに違いない。一口飲むと想像通りの甘さで幸せな気分がこみ上げる。七海を見てみると鼻歌でも歌いだしそうな程機嫌良さそうにしていた。みんなはこんな七海の事を知らないだろうな。私だけが知っている貴方の顔。
「そのままじっとしててね」
「今度は何でしょう」
優しく小さな声で言い、私の頬に手を当てた。七海の温もりが伝わってくる。私たちは生きているのだと生命の存在を感じる。彼の大腿に頭を乗せ、横になって見上げた彼は穏やかな笑みを浮かべていた。
「頭を撫でてください」
「今日も頑張りましたね」
髪を梳かすように優しく撫でられ、胸の中が温かな気持ちで満たされていく。不安や心配をすべて薙ぎ払う貴方のその手が好き。
「ネトネトした呪霊に足を掴まれて最悪だった」
「優秀な後輩が世界で一番大切な私の恋人を救ってくれたと聞きました」
「うん。あの時、助かったって思ったし、死にたくないんだってわかった」
七海の手と取って握りしめ、手首にそって指を飛わせる。私よりもゆっくり脈打つ確かな鼓動。脈を確かめる私を不思議そうに見つめながら七海が穏やかな声で私に言う。
「帰ってきてくれて嬉しい。アナタがドアを開けるのをずっと待ってた」
「七海がご飯作ってくれてるかなって考えながら帰ってきたの」
「いつでもどこでもアナタのために、なんだってします」
「私は何があっても七海のところへ帰るよ」
七海が身体を折って私を覗き込む。彼の腕に捕まって身体を起こそうとすると、背中から支えられ七海の顔が至近距離にやってきた。お風呂上がりのシャンプーの匂い。チョコレート味の甘い口付け。
「私の話聞いてくれる?」
「もちろん」
唇は離れたのに額をつけたまま七海はぴたりと制止して動かなくなった。離れたくない。私と同じだね。
「私って結構頑張ってるよね」
「努力家です」
鼻先に七海の唇が触れると甘い香りがした。そのまま私は先々週からの出来事を七海に話す。近所で噂の呪われた廃屋は不良のたまり場だった事、ふらりと入ったお店のランチがすごく美味しかった事、空に掛かっていた虹がきれいだった事。うんうん頷いたり、労ってくれたり。こんな毎日が明日からも続きますように。
「眠くなってきたから一緒に寝てください」
「いいでしょう。でもその前に……。少しここで待っていて」
そう言うと七海は洗面所に入って、それから歯ブラシと歯磨き粉を持ってやってきた。ソファで転がる私を再び膝枕へと乗せ、優しい手つきで歯ブラシを私の口の中に入れる。爽やかなミントの風味が広がった。
「イーしてください」
言われたとおりにすると、ふふふと声を漏らして笑っている。妙に楽しそうな姿にこちらまで嬉しくなってしまう。ブラシに少し角度をつけて前歯を丁寧に擦られる。壊れ物に触れるみたいに柔らかいタッチが少しくすぐったくて身を捩ると、七海の指がそっと口の中に入ってきた。口角を少し引っ張って奥歯を磨く。夜の時とは少し違う触り方なのに背中がむずむずする。そんな私に気づいたのか、七海は目を細めて何か言いたそうにした。言葉を飲み込んだのかにこやかに微笑むだけで何か聞こえてくることは無かったが、温もりの篭った視線が深い愛情を伝えてくるみたいだ。そのまましばらくブラシの角度を細かく変えて磨かれてみる。気持ちいいな。ますます眠くなってくる。
「次はアーン」
言われるがまま口を開く。変な所を見られてないかな、と不安になる。七海は何も気にしていないとでも言う風に奥歯に沿ってブラシを小刻みに動かし、私の口の中を覗き込んだ。
「よく磨けてますよ。綺麗です。虫歯も無い」
「なんかちょっと、恥ずかしいね」
「口の中まで可愛らしい」
「変なの」
洗面所まで抱き抱えられ口を濯ぐとタオルで口元を拭われた。まるで小さな子どもにするように世話を焼く七海はとても満足そうだ。
されるがままにベッドへと下ろされた。私が壊れないようにそっと優しく寝かされる。もう何ともないと言ったのに、左の肩を温かな手が何度も撫でた。
「明日の朝食のリクエストをどうぞ」
「ええっと、日曜日の朝市で買ったフルーツトマトってまだある?」
「少しだけ」
「じゃあそれと、トーストと、ふわふわのカプチーノ」
「スクランブルエッグも付けましょう」
「やったあ!」
明日の朝も特別メニューらしい。嬉しくて七海にくっつくと、彼はその広い胸の中に私を入れてくれた。キッチンにある二人で選んだ海外製のエスプレッソマシン。お互いに忙しくしているのですぐ使わなくなるかと思ったのに、七海は毎日これでエスプレッソを淹れている。私のためにフォームミルクを作ってカプチーノやラテにしてくれるのが嬉しい。深煎り豆を細挽きにする香ばしい匂いも好きだけど、七海がミルクを温めながら泡立てているときのほんのり甘い匂いも好き。
「何時に起きたいですか」
「六時半に起こして」
「もう少し寝ていても間に合うのでは」
「じゃあ七時」
「わかった。おやすみ。愛してる」
こういう事を真顔でさらりと言ってのける七海はずるい。毎日聞いているはずなのに付き合い始めた当初みたいにドキドキさせられる。それから胸がいっぱいになって、離れたくないと思ってしまう。こんな私達にもいつか何らかの形で別れが訪れるのだろうか。そうだとしたら、それは、すごく悲しいな。そんな日は来て欲しくない。明日もまた今日と同じように貴方の隣で眠りたい。
「幸せだなあ」
「それは良かった」
「明日は私の番だからね」
「いえ、当分アナタからのお願いを聞かせてください」
「お願いしてみたけどさ、ちょっと過保護になったくらいで普段と変わらなかったよ」
「アナタからお願いされてするのがいいんです」
もっと私に貴方をください。与える事で満たされるのならば私はいくらでも受け止める。七海で溢れる私にしてよ。ずっと側にいるから、貴方もどこにもいかないで。
記録的猛暑を引きずったまま迎えた十月もほとんど終わりの今日。私たちはいつものように一つのベッドで身体を寄せ合って眠る。未だに夏の影響があるのか日中はまだ少し汗ばむこともあるが、夜には随分と冷えるようになってきた。七海が日中に干してくれた冬用の掛け布団に二人で入ると、シーツが私たちの体温になじんでいくことが幸せの証であるように感じた。
「忘れ物ですよ」
何か物足りなさを感じていたのは私だけではなかったようだ。
「寝る前のお願いを聞かせてください。いつものやつです。さあ」
「キスしてください」
「喜んで」
優しくてつよい私の愛する人。どうか悲しい顔をしないで。私も貴方を癒したい。
「やっぱり七海からのお願いも聞きたいな」
「アナタからのお願いをもっと聞かせてください。それが私からのお願いです」
私が還るのは貴方の元だけ。もしも離れ離れになってしまう事があっても、絶対に七海を見つけて戻ると誓うよ。
※CHI-SUKEさまの企画「#同じお題で七夢書こう」に参加。お題は国旗、歯磨き粉、忘れ物。