原光景





 ある日七海の住むマンションのポストに一通の手紙が届いていた。ダイレクトメールではない。日頃手紙のやり取りをするような人物に心当たりは無いが女性らしい丸みを帯びた字で書かれた自分の名を見て、七海はそれを誰が書いたか瞬間的にわかってしまった。途端に全身の力が抜け落ち、視界がぐらつきはじめる。いつもならその字は元旦にしか見ることができない。さらに聞いたこともない人物の名前が連名で書かれている。一般の青春とはかけ離れた学生時代を送り、逃げた大学でも鬱々と過ごして社会とは大きく距離をとって生きてきた七海だが、この手紙が何を意味するのかわからないほど世間知らずではない。誰もいないエントランスの脇にあるポスト前。七海は辺りを見渡した。嗤われている気がしたからだ。誰もいない。当たり前だ。七海を嗤ったのは自分自身に他ならない。

(こんなことわかっていただろう。お前は愚かな男だ)

 一人立っているのにどこからかザワザワとした騒音交じりに嘲笑する声が聞こえてくる。ドクドクと頭の中に鼓動が響き、徐々に大きくなってきた。心臓は未だかつてないほど早く打つのに、脳へ適切に血液が送られていないのか眩暈がする。足元がぐらつき、真っ直ぐ立っていられない程になりはじめたので七海は慌てて手紙をビジネスバッグのサイドポケットに押し込んだ。

――家に帰らなくては。

 それなのに視界にはモヤがかかり、前がよく見えない。まるで霧の中を歩くようだと思いながら、七海はなんとかエレベーターに乗り込んでボタンを押した。自宅階まで自動的に運ばれた後は記憶が無い。扉が閉まる音と共用廊下より少しだけ温かい自宅に着いた途端、全身の毛穴から冷や汗が吹き出し、そのままずるずると玄関に座り込んでしまった。キーンと耳の奥の方で高い音が鳴っている以外は何も聞こえない。しばらく座っていたが回復する気配はなく、このままでは死んでしまうと感じた七海は靴を履いたままその場に倒れ込んだ。


 ドクンドクンと拍動が首から上に響く。ザアザアと血液が全身を巡る音がする。目を閉じているのにギラギラと輝く何かが見えた。就職活動の際に購入した一番安いカッターシャツは汗でびしょ濡れだ。頭が痛い。喉が渇く。床の冷たさが気持ちいい。なぜこんなことになってしまったんだ。情けない。早く寝なければ。明日がまた来る。


 しばらく玄関で倒れ込んでいた七海だが、横になったことで循環動態が落ち着いたのか徐々に視界は戻って来た。手を開くと汗でじっとりと濡れていた。自宅の鍵を強く握りこんでいたらしく、てのひらには紫色の内出血痕がじわりと浮かんでいる。まだら模様のそれは自分の心の不安定さを表しているようで気味が悪い。なんとか壁伝いにリビングへと行ってソファへ倒れ込み、服を脱いだ。下着一枚になると開放感からか少しだけ気持ちが落ち着いた気がする。未だ見慣れない一人きりの賃貸マンションのよくある壁紙を眺めてみる。白いはずの壁がじわじわと赤く滲む。涙と共に血液が流れているらしい。ついに死ぬのかと七海は思ったが、どうやらふらついたときにどこかへ頭をぶつけたようだ。顔を触って確かめると額に切り傷があった。なぜだか痛みはない。血生臭いことをたくさんしてきたが、傷つくことに慣れたわけではないはずだ。悔いがないとはいえない己の人生を反芻しながら、視界にちらつく赤を拭う。手を見るとべっとりと血液が付着した。こんな時でもソファが汚れるだとか、先月買ったばかりのスーツに血が付いてしまうだとか、どうでもいいことばかりが頭に浮かぶ。これから死ぬ人間の考えることでは無いと、なんだか妙におかしくなって七海は声を出して笑った。そして足元に放り投げた鞄から先ほどの手紙を取り出す。こんなものすぐに破り捨ててしまえばいいのに、まじまじと見ることをやめられない。自虐的なその行為を七海はまた嗤った。どうかしている。学生時代が脳内を駆け巡る。思い出したくも無い陰鬱な生活がフラッシュバックしたが、なぜか心地よさを感じた。

(あんなイカれた世界に身をやつしていることが苦しくて逃げたのに、今はどうだ)

 学生時代をなんとか生き延びた七海は社会の歯車となり心は色を無くした。結局、どこで何をやろうが同じなのだ。

 彼女が年賀状と暑中見舞い(ここ三年はきていないが)以外に七海に手紙をよこすのは何年ぶりだろう。入学や卒業、就職といった人生の節目には必ず手紙のやり取をした。しかし成人式以降は大きなライフイベントが早々あるわけでもなく、彼女との文通はしばらく途絶えていたのだ。こういったものを受け取るのは初めての七海だが、それが結婚式の招待状だとすぐに理解した。わかっていた。こんな日が来ることは。それでも認めたくない。七海がこの世界に生まれてからずっと想い続けている相手が自分以外の男のものになってしまうことなど。認められるわけが無い。七海はしばらく手紙を眺めた。開封しようかと思ったがどうしても開けられない。机の引き出しを開けて奥の方へ置いておこうと決め、最後にもう一度シーリングスタンプの手触りを確かめた。それからそっと仕舞って鍵をかけた。いつかこの手紙を開ける日が来るのだろうか。

 毎月第四金曜日はノー残業デーで強制的に退社させられる。土日は連休だ。毎日眺めた手紙をついに開ける日がやってきた。しらふでは到底見ることができないだろうと考えた七海は、適当なスナック菓子と酒を買い込んで帰宅した。しばらく浴びるように酒を飲み、身体中にアルコールを行きわたらせる。いくら酒に強いとはいえ際限なく飲めるわけでは無い。視界がぼんやりし始めた七海はなんとか机までたどり着き、一番上の引き出しの鍵を開けて奥の方から手紙を取り出した。まじまじ見ると、どうやらこの手紙全てが手作りなのだとわかる。上品な真っ白の封筒に押された金色のシーリングスタンプを厳かに剥がす。中には薄いピンク色のドライフラワーが一本封入されていた。手漉きの和紙の便箋に女性らしい丸っこい字で【七海建人様】と書かれた彼女からの手紙。既定の書式で書かれたであろう返信用の葉書。幼い頃から変わらないその字を見て懐かしく思うと同時に、あの日から七海の心の奥底でくすぶり続ける炎が徐々に温度を上げていくのに気づく。今更燃え盛っても何もかも遅いのに、その勢いはとどまるところを知らない。どこかで彼女に気持ちを伝えることができれいれば、今日の日は無かったのだろうか。彼女とは別の高校へ進学することが決まったあの日、交際を申し出ていれば彼女は今頃自分の隣を歩いていたに違いない。呪いが視えなければ、祓う力が無ければ、普通の男として彼女と一緒にクレープを食べながらショッピングを楽しむ至って普通の学生生活を送れたかもしれない。バージンロードを歩く彼女の手を取り一緒に逃げようと伝えたら驚くだろうか。

 七海はありもしない〝イフの世界〟ばかりを空想して楽しんだ。そんなことができたならば今の自分はないとわかっているのにやめられない。諦めきれない恋慕はもはや執着だ。そんな感情を七海は生まれてこの方ずっと捨てることができないでいる。

 彼女の手紙はいつも取引先にでも送るのかと言いたくなる季節の世辞で始まり、それが一通り終わるといつもの口語になる。見なれた彼女と七海だけの書式だ。

『ケンちゃん元気? 私は元気です。仕事はどう? ケンちゃんのママが全然帰ってこないって寂しそうにしてるよ。私はなんと、寿退社することになりました! 信じられる? 私が結婚するの。大学の時の同級生で商社でお仕事をしています。(商社のお仕事ってなんだろうね?)すごくいい人だから会って欲しいな。もう長いこと会ってないね。久しぶりに話したいです。』

 ふやけた頭で手紙の内容を読み解く。結婚式に出てくれというものだった。結婚式の招待状なので当然だが、改めて咀嚼すると腹の内容物をすべて吐き出してしまいたい衝動に駆られる。

(そんな嬉しそうな顔をしてこっちを見るな!)

 返事を書こうとして手に取ったペンで思わず彼女の顔を塗りつぶした。

(お前みたいな男は彼女にふさわしくない!)

 隣で笑う男の写真をペーパーナイフで切り裂いた。

「なぜだ……!」

 思わず口を吐いた言葉に七海は愕然とした。何もおかしいことは無い。当然だ。物心ついてからずっと想い続けている自分が狂っているのだと七海は心の中で自分を諭した。

 唯一の救いといえば、恐らくその他大勢には同封されていないであろう個人へ宛てた内容の手紙が同封されていたことだ。最悪の知らせだが、この手紙一枚あることで彼女にとって自分はまだ特別であるといわれているようで七海は優越感を得た。しかしいつもの近況報告かと思ったのに、そこには聞いてもいない夫になる人物との馴れ初めが書かれている。知りたくない。でも読んでしまう。七海は自虐的な自分の行いを客観的に見つめて拳を強く握った。どうしようもない感情をこれからどうすればいいのだと自問するが答えは出ない。抱えて生きていくしかないのだろう。

 静かな街の洒落たチャペルに七海はいる。この日の為に選んだ、早朝の空のような美しい青いシャツと新調したダークグレーのスーツ、淡いピンクのネクタイを身に着けて。厳かなパイプオルガンの生演奏を聴きながら七海は案内された席に着いた。早く着きすぎたせいか一組の女性グループがいるだけだった。友人なのか同僚なのかは知らないが、同年代らしき人々が集まって一斉に七海へ視線を向けた。一番派手な色のドレスを着た女性と目が合ってすぐに七海は視線を逸らした。彼女らとすれ違った後にひそひそと噂話をされているような気がするが、背中に目も耳もないので勘違いかもしれない。もしそうであったとしても、数時間の付き合いになる自分には関係ないことだと七海は頭の中から見知らぬ女達を追い出した。

 真っ直ぐに前を向くと大きなステンドグラスが目に入る。教会内を美しく照らし、これから行われる式が大勢の祝福に満ちた素晴らしいものになる期待をさせた。七海はそのまま彼女との思い出を振り返る。産まれてから今日までの二人の歴史を。温もりと愛に満ちた二人だけの世界を生きていたあの頃を。

 七海建人が初めて彼女を視界に入れたのは生まれて数日のまだ新生児の頃だった。目を開けてもぼんやりとしか周囲は見えず、母の胎内から切り離されたことに驚き弱々しい泣き声を出しながら存在を周囲に知らしめようとすることしかできない。口の中に差し込まれた何かに本能的に舌を絡めて吸引すると甘いような鉄錆のような味がした。目を開けると自分とよく似た肌の色があったがそれが母なのか彼女なのかはわからない。しかしぽかぽかと温かい体温が七海に安心感を与え、愛情を注がれてすくすくと育った。家族ぐるみの付き合いをしていた隣家の娘は七海の家に足繫く通って幼い赤子をあやして撫でて、まるで自分の弟のようにかわいがった。それはままごとのような子ども同士の戯れだったが、毎日のように彼女を見ていた七海はいつしか姉のように慕い始める。七海よりいくつか大きな女の子は、小さな男の子を守ってあげるんだと周りの大人たちに言い回り得意げにしていた。幼い七海はそれを喜び、頼もしいお姉ちゃんに守られながら幼少期を過ごした。

 少しずつ世界が広がり、七海の目には他の者には見えないモノが視えていることに気付き始める。徐々にクリアになっていく怖いオバケたち。それが自分にしか視えないとはっきり自覚したのはいつ頃だろう。誰にも本当のことを言えないまま身体だけが大きくなっていくようなちぐはぐ感に恐怖を感じながら、七海は俯いて唇を噛み、震えながらオバケから目を逸らして幼少期を過ごす。そんな彼をまるごと受け入れ側に居てくれた女性を好きにならないわけが無いと誰もが考えるだろう。彼女は何も視えないし何も知らない。それでも怯える七海を抱きしめ、震える手を取り、朗らかな声で彼を導く。彼女の生来の優しさと親しみやすさが七海にとって救いであったと同時に、誰にでも〝そう〟であることに苛立ちも覚えた。

(僕だけのお姉ちゃんでいてよ!)

 幼い彼は何度心の中で叫んだかわからない。それを声に出せないのが七海建人なのだ。

 時間が経てば身体も心も本人の意思に関係なく成長していく。ただでさえ難しい子であると言われていた七海は、思春期となり更に内に篭っていった。誰にも視えない異形が見える己を呪い、怖れ、嫌悪した。端麗な容姿だが近寄りがたい陰鬱な空気に同年代の友人はできなかった。それなのに、彼女だけは違う。お姉ちゃんだけは変わらず平等に愛を持って接した。七海は自分だけが特別ではないと理解していたつもりだ。一般人である彼女の隣に並ぶことはないといつも線引きをしてきた。しかし彼女はそんな線は見えないとでもいうように、眩しい笑顔を輝かせて七海の名を呼ぶ。どこをとっても美しく、真っ直ぐで疑うことを知らない彼女の心は初夏の海のようにきらめいている。誰にも染まらない彼女を想い続けて七海は青春時代を過ごした。

 長い間一人で考えを巡らせていた七海の隣に見知らぬ男が座った。小さく会釈をして色付いた陽光に視線を戻す。すると突然パイプオルガンの曲調が変わった。振り返るとそこにはいつもの笑みを輝かせた彼女がいて、神妙な面持ちでバージンロードを歩む。七海はハッとして現実世界へと引き戻された。そうだ。今日は彼女の結婚式だ。他の誰でもない、七海の根底に在り続ける女性の結婚式なのだ。彼女が誰かのものになるなど信じられないし、信じたくない。しかしそれは七海の知らないところで随分前に決まったようだ。彼女にとって七海はその程度の人間だったのだろうか。

 彼女の隣には妙に体格のいい見知らぬ男が居て、二人は誓いの言葉を述べ、指輪を交換し、キスを交わした。まるで映画でも見ているような気分だ。どこか遠くの、自分とは全く関係が無い世界を覗いているような、そんなふわふわした気持ちのまま七海は周囲に合わせて控えめな拍手をした。誰かに外に出るよう言われ、そのままついていく。美しく着飾った若い男女がそれぞれ連なって移動していた。チャペルの出口で待ち構えていた派手な髪型の女性にコンフェッティコーンを手渡され、何も考えずに受け取る。前に見える頭についていくと美しい庭に出た。そこかしこに色とりどりの花が咲き、生命力の象徴であるような木々が並び緑が眩しい。七海以外の何もかもが今日の結婚式を祝福している。こんな爽やかな休日に七海は過去から逃れられず上の空で彷徨っているというのに。

 司会役の誰かが何かを唱えると彼女と見知らぬ男が歩いて来た。周りの人間たちは笑顔を弾けさせてコーンの中身を二人にぶちまけた。リボンや羽毛、色彩豊かな紙吹雪を浴びて彼女はきらきらと笑った。彼女がぼんやりと列に並ぶ七海を見つけ、手を振って微笑んだ。とびきり明るい彼女の笑顔に向かって七海はコーンの中身を解き放つ。その瞬間、世界がスローモーションになった。彼女との思い出が走馬灯のように脳内を駆け巡る。初めて手を繋いだ日。抱きしめれらたときの柔らかさ。震える身体をそっと撫でられたときの安堵感。両親不在の家で交わした秘密の約束。彼女は忘れてしまったというのだろうか。

 彼女の頭上にキラキラと瞬く派手な紙吹雪が舞い散り、羽毛がふわふわと風に乗る。彼女と再び目が合った。今までのことを何もかも忘れたという顔をしている。今が人生で一番の幸せだとでも言いたげに七海の元へ駆け寄り首をかしげて笑う。

「ケンちゃん来てくれたんだ! ありがとう!」
「結婚おめでとう」

 七海は目元をわずかにほころばせ祝福を述べた。幸せが形を持っていたら今の彼女のように成るのだろう。喜びを全身で表している姿を見て七海は肉体と魂が少しずつ離れていくような感覚を覚えた。精神がそのままとけて流れだし、地面にゆっくりと吸い込まれていくようだ。これは現実ではない。誰か知らないが不幸な男がいて、そいつの身に起こっているに違いない。そう思う七海とは別に、冷静に現実を見る七海も存在した。自分と彼女は決定的に違う。七海には通常視えぬものが視え、そのせいで生死の現場でもがいてきた。そこから逃げ出した今もなお、悪夢に魘されている。どうあがいても彼女の隣を歩くことなどできはしない、と。

「みなさま、前の方へお集まりください」

 司会者の朗らかな声が聞こえると黄色い声を出しながら数人の女性が前へ出た。もっともっとと新婦と司会が手招きすると、みな一様に前へ進み円を描くように並んだ。誰かに押されて七海もその円の後方に辿り着く。

「いくよ~! それっ!」

 彼女の楽し気な声が聞こえたと同時に人々は手を伸ばして何かをつかみ取ろうとした。花の塊が集団に向かって投げつけられたようだが逆光で良く見えない。七海は太陽の光を遮ろうと手をかざした。そこへ吸い込まれるように純白の薔薇のブーケが飛んできたものだから、七海は咄嗟に掴んでしまった。

 全員の視線が七海へと刺さる。集団から頭一つ出ている分余計に目立つ。ほんの数秒前まではあんなに賑やかだったのに突如静寂に包まれた。瞬きの音さえはばかられる。七海は掴んだブーケをゆっくりと頭の上から降ろした。全員七海の動作にに合わせて視線が動く。悪いことをしたに違いないと七海が一言謝ろうとしたとき、フフフと息を漏らすように彼女が笑った。

「なんでケンちゃんが取ってるの~!」

 絹の手袋を口元へ当てながら彼女はケラケラと嬉しそうな声を出した。緊張が一気に緩んでゲストたちも笑う。見知らぬ若い男から七海は背中をバシバシと叩かれよろめいた。そんな七海を見て更に場の空気は和み、皆ぞろぞろと披露宴会場へと向かった。ぽつぽつと一番後ろから歩く七海から式場のスタッフはブーケを回収した。お包みしますと言うのを断るわけにもいかず、小さな声で礼を述べ再び列に混じって歩いた。

 七海の座席は新婦友人一同の中にあった。その中の一人で同じ小学校に通っていたという人物から声を掛けられたが、七海には彼がどこの誰かもわからなかった。適当に相槌を打ち着席すると披露宴が始まった。新郎新婦が入場して大昔に母親が見ていたドラマと同じように、二人でケーキへナイフを入れた。一通りの挨拶が終わったら皆が前に並ぶ新郎新婦の元へ駆け寄り、順番に写真を撮って祝辞を述べた。七海も皆にならって行くべきだと気付き、鉛のように重い足を引き摺って前へ出た。七海の接近に気付いた彼女は手を振り、新郎は会釈をする。

「ご結婚おめでとうございます」
「初めまして。妻から聞いています。本日はありがとうございます」
「ケンちゃんありがとう。すっごく嬉しいよ」
「綺麗です。とても」
「今日の為にエステとホットヨガに通ったんだ」

 ピースサインをしながら歯を見せて笑う姿は昔のままだ。

「二人で幸せな家庭を築いてください」
(そんなやつと結婚しないでくれ。生まれ変わったら絶対幸せにするから)

 心の中にはぐるぐると嫉妬が渦巻いている。それでも七海は目元を細め笑っているような顔を作り、祝辞を述べた。今日が彼女との永遠の別れの日になる。二度と目にすることは無いその姿を七海は網膜に焼き付け、我ながら演技が上手いと自嘲しその場を後にした。

 テーブルに運ばれた食事を口にしながら七海は昔のことばかり考えていた。小学校の夏休み。学校のプールへ通うため彼女の家を訪ねたら招き入れられたことを思い出す。着替えるのが面倒だから服の下に水着を着ているんだと、玄関で彼女は服を脱いで七海に見せた。見慣れたいつものスクール水着のはずなのに、どうしてか見てはいけない気がして目を逸らした。日が昇り切る前の少しだけ涼しい夏休みの朝。誰もいない薄暗い玄関。発達の早い彼女の膨らみ始めた胸元を意識した途端、七海の身体の奥底から噴火しそうな衝動が湧き上がる。慌てて誤魔化すように後ろを向いたら玄関がゆっくりと締まるところだった。

「遅刻しちゃうよ」
「大丈夫だよ。ケンちゃんは下に水着着てるの?」
「着てないよっ」
「見せてよ」
「だめだよ、だって……」
「だって?」
「早くいこ、お姉ちゃん」
「男の子って、どうなってるの」
「え……」

 七海はこの先を極力思い出さないようにしている。それでも今日のような日はどうしたって記憶の蓋が開いてしまう。このままずっと隠していたいのに、まるで今日を待っていたかのように内側から出てこようとする。真夏でも涼しかったあの日、結局水温が規定より低くプールは中止になった。家で遊ぼうという彼女の誘いを七海は初めて断った。前を向くとあの日と同じ紺色のドレスが煌めいていた。彼女はあの夏休みの一日を覚えているだろうか。

 両親への手紙や友人らの余興など次々とプログラムが終わっていく。披露宴も終盤になり皆が名残惜しそうにシャッターを切っていた。七海は周囲に合わせて新郎新婦の写真を一枚だけ撮ったが、保存せずにそのまま消した。開場を出るときに引き出物を受け取り、二次会へ行く人々を横目に帰路につく。前を向くことができない。コンクリートを見つめながら下唇を噛み、足を動かすことだけに集中した。

 それほど遅い時間でもないのに、結婚式が始まったときとは違って駅は多くの人で賑わっていた。急行が駅に入ってきたが七海はそのまま見逃して各駅停車に乗り込んだ。落ちていく夕陽を眺めていると、今日の出来事はすべて幻だったのではないかと思った。きっとそうに違いない。

 あっという間に失意の七海を乗せた電車は彼の自宅最寄り駅に着く。

「あの、これ、忘れ物です」

 隣に座るリクルートスーツを着た女性に七海は声を掛けられた。それは彼女によく似たコンビニ店員だった。

「ああ。それはもう、いらないんです」

 その女性が七海に向かって差し出した紙袋には純白のブーケとバームクーヘン、それからセンスのいいカタログギフトが入っている。今日のシャツと同じ色の紙袋を残して七海は電車を降りた。

 すっかり夜の帳が降りている街の空気を七海は胸いっぱいに吸い込んだ。

「大人になったら結婚しようって、お姉ちゃん、そう言ったじゃないか」

 この常闇の世界でこそ安心していられる。もう元には戻れないのだ。