恋愛において、決勝戦敗退も予選敗退も同じ〝失恋〟である。
七海が彼女へ向ける感情は恋愛では無いから失恋とはいえない。彼は間違いなくそう言うだろう。
七海はこの感情を恋愛ではないと二十年以上己に言い聞かせている。そんなことがあってはならないと否定し続けてきている。彼女と七海では見えている世界が違い過ぎる。交わることは決して無い。彼女がどんなに七海との距離を縮めようが、彼は彼女を招き入れたわけでは無いと言う。しかし七海がどれだけ彼女を心の外に追い出そうとしても、彼女はいつの間にか戻ってきて彼に微笑みかけるのだ。そして一年に一度きり、年賀状を一方的に送られるだけの付き合いになってしまった今でさえ、彼の心の奥底には彼女の幻影が巣食っている。
彼の心の中を覗くことができたなら、誰もがそれを恋慕だというだろう。そうすると彼は彼女に失恋したことになってしまう。彼は認めるだろうか。どんなに擦ってもこびりついてとれない感情は愛と情欲であるということを。
残業続きで毎日疲労困憊の七海は、今日も早朝に出社する前に会社付近のコンビニに立ち寄って昼食のついでに夕食と夜食も買った。今日の夜食はカップ焼きそばと鮭おにぎり。湯切りをしたら麵が伸びることはないので、手が離せない状況になっても冷めてしまっても食べられるという理由だ。湯切り口から細かな麺が流れていく様子を七海はぼんやりと見つめていた。新築オフィスビルのシンクは簡素な造りだが、熱い湯を流しても大きな音を立てない。暗い学生時代を過ごした寮の古いシンクは夜中であっても大きな音を立ててへこんだ。だから水を流しながら排水溝目掛けて湯切りする癖がついてしまっている。もうそんなことをする必要はないというのに、こんな些細なことでさえ一度決めたルールを覆すことができないままでいる。七海はそういう男だった。そんな七海のいつまでも直すことのできない癖を彼女は知る由もない。彼女とは違う場所で青春時代を送ったことを反芻し、七海の胸はギシリと軋んだ。もう何年も会っていない。毎年元旦に届く一枚の葉書に印刷された彼女の姿を見るだけの関係だ。ずっと返事を書いていないにもかかわらず、住所を変えても彼女の年賀状は七海の自宅へと届く。恐らく実家の母親に聞いているのだろうと思うが確認したことは無い。実家にも同じくらい長く帰っていない。母からは時折メールで連絡があるが、ここ最近は返信さえしていなかった。それでも捜索願を出されることなく七海は都会の片隅で社会の歯車となり、インスタント食品で命を繋ぎ今日まで生き延びている。
一段落したら帰ろうと決め再びパソコンに向かう。帰りも七海はコンビニへ寄る。いつも行く自宅から少し離れたコンビニの深夜アルバイトには彼女によく似た女性がいる。年齢は恐らく彼女よりかは若い。大学生だろうか。昨年の年賀状に載っていた愛犬のトイプードルに頬ずりする彼女。その写真にそっくりなのだ。だからどうというわけではないのだが、七海は家から遠いそのコンビニまでわざわざ出向く。忘れたくても忘れられない彼女の幻影を求めて。いらっしゃいませ。ありがとうございました。接客用に出されるよそ行きの声がインターホン越しの声に少し似ている。こんなことは馬鹿げているとわかっているのに止めることができない。彼女とどうこうなるつもりなどさらさらないくせに、よく似た女性に彼女を映してひび割れた心の修復を図る。この期に及んで一体何を望んでいるのか七海自身もよくわかっていない。彼女とは別人の女性に会ってどうしたいのかと問われたら七海はきっと、残業の後の習慣になってしまっただけだと答えるだろう。
ある日ポストに入っていた一通の手紙。その日から七海の世界の色が変わった。七海にとって彼女は唯一無二の存在だったのに、彼女にとって自分はそうでないと突き付けられた現実。いずれこんな日が来るとわかっていたはずだ。この手紙への返事を遅らせれば遅らせるほど、七海は自分の気持ちに向き合うことになるということをわかっていながら、ずっと返信できないでいる。机の奥深くにしまい込み忘れ去ろうとしているのに、強烈な存在を感じて毎日確認してしまう。変わらずただそこに存在する彼女とその夫となる人物からの手紙。大きなため息を引き出しの中に向かって吐いてみるが現実は何も変わらない。いつかは返事をすることになる手作りの可愛らしい手紙。七海は今夜もその封筒を眺めている。裏面に押されたシーリングスタンプを指でなぞる。彼女が一つ一つ押したのだろう。つるつるした端の方の感触を確かめながら彼女に想いを馳せる。花柄の凹凸を撫でながら彼女の相手を想像した。
明日が期限だ。返事をしなくては。七海は彼女が高専への入学祝にプレゼントしてくれた名入りの木軸ボールペンを手に取った。
〝御〟の字と〝御欠席〟の字に二重線を引く。ゆっくりと〝出席〟の二文字を円で囲んだ。そしてその上に〝謹んで〟と書き、下には〝いたします〟と付け加えた。